2018.4.15.

水をぶどう酒に変える

ヨハネ2:1-11

イエスが最初に奇跡を行われた場所は、ガリラヤのカナという村でした。
イエスは、カナで催された婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡を行われました。

 

 

1.主に期待する

カナで開かれていた婚礼に、イエスと母マリヤも招かれていました。
その宴会の最中に問題が起こりました。客に出すぶどう酒が切れてしまったのです。
宴会中に、ぶどう酒がなくなってしまうということは、客に対して失礼なことであり、
婚礼の主催者側にとって大変な恥辱であり、不名誉なことであり、問題でした。
この問題が起こった時、マリヤは、先ずイエスのところに行きました。
そして、イエスに「ぶどう酒がありません」(3)と、必要を訴えました。
この時、なぜ、マリヤは、婚礼の主催者側の「宴会の世話役」(9)のところに行かず、
客として招かれていたイエスのところに行ったのでしょうか。
本来なら、客であるイエスではなく、「宴会の世話役」に必要を訴えるべきでした。
マリヤは「イエスなら何とかして下さる」と信じ、期待して、イエスの元に行ったのです。
私たちにも、主に期待するということが大切です。
私たちも、毎日の生活や人生の中で、様々な問題に直面することがあります。
マリヤが「イエスなら何とかして下さる」と期待して、イエスの元に行ったように、
私たちも主を信じ、主に期待し、主の元に出なくてはならないのです。
私たちは、どのくらい主に期待しているでしょうか。
「どうせダメだろう」と諦め、祈ることを止めてしまってはいないでしょうか。
可能性の無いことは祈らず、可能性のあることだけ祈るということはないでしょうか。
それは、もはや信仰の祈りではありません。
どんなに可能性が無くても、信じて、期待して、祈ることが信仰の祈りです。へブル11:1
マリヤのように、主に期待し、大胆に御前に進み行きましょう。詩篇50:15ヘブル4:16

2.主に委ねる

マリヤの切なる訴えに対し、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(4)と答えました。
「わたしの時」とは、イエスの時であり、イエスが栄光を現わす時です。
イエスの栄光は、十字架と復活の時に現されます。
ですから、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。
しかし、マリヤは、この婚宴の席で、イエスの栄光が現されることを願ったのです。
栄光の現れ方について、イエスとマリヤの考え方が少し違っていました。
しかし、マリヤは、イエスの言葉の意味を悟り、全てをイエスに委ねる信仰を持ちました。
それで、手伝いの者たちに「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」(5)と、
全てをイエスに委ねて、イエスの指示に何でも従うように言ったのです。
私たちが願う方法とイエスが栄光を現す方法が違うことがあります。
また、私たちが願う時とイエスの御心の時とは違うこともあります。イザヤ55:8,9
大切なことは、主の時、主の方法に委ねるということです。
そして、全てを主に委ね、主が「言われることを、何でも」することが大切です。
「主に委ねる」ということは、諦めることではありません。
単に自分で考えることを止めたり、何もしないことではありません。
主が良い事をして下さると信じて、期待することであり、
主が導かれることには何でも従いますという献身の態度です。

3.主に従う

イエスは、「手伝いの人たち」に、「水がめに水を満たしなさい」(7)と言われました。
水がめの水は、儀式用の水で、足を洗いきよめたり、手を洗うためのものです。
「手伝いの人たち」は、イエスに言われた通り、「水がめを縁までいっぱいに」(7)しました。
「八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめ」は、かなり重かったでしょう。
それも、一つや二つではなく、「六つ」(6)全部に「縁までいっぱいに」水を入れたのです。
今のように簡単に水を入れられず、大変な重労働であったと考えられます。
しかし、彼らは、「重い」、「大変だ」、「疲れた」、「もう嫌だ」と不平不満を言わず、
イエスが言われる通りに、黙々と最後までやり遂げたのです。
すると今度は、イエスは、「さあ、今くみなさい。
そして宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われ、「彼らは持って行」きました(8)。
彼らは、「こんなことをして一体何になるのだろうか」と疑い抱きませんでした。
どうしてそのようなことをするのか理解出来なくても、イエスの言葉に従いました。
無意味なように思えても、納得出来ないことでも、彼らはただ主に従ったのです。
主に期待し、主にある夢や希望を抱くということは大切なことです。
しかし、今、自分が置かれている現実の中で、
主が私たちにするように導いておられることをしっかりと行うことも大切なのです。
夢や希望を追い求め、現実逃避した、現実離れした、地に足が着いていない歩みではなく、
地にしっかりと根ざした歩みをしなければならないのです。
私たちには、理解出来ないこともあります。無意味に思えることもあります。
それでも、主が今するようにと導かれていることを忠実に行っていくのです。
現実から逃げたり、隠れたりしてはなりません。
創世37-50章。ヨセフには夢がありましたが、
それとは裏腹に、現実は、その夢とは程遠いもの、全く正反対な状況でした。
しかし、ヨセフは根性が腐ることなく、置かれた場所で忠実に仕えました。
そして、主の時が来た時、ヨセフに与えられていた夢が実現したのです。

何も知らない「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わって」(9)、とても驚きました。
なぜなら、それは最高級のぶどう酒だったからです。(10)
こうして、イエスは、「ご自分の栄光を現された」(11)のでした。
イエスは、今日も、水をぶどう酒に変える奇跡を行われます。Cf.ヘブル13:8
私たちもイエスを信じ、期待して、イエスのもとに行きましょう。
また、イエスに全てを明け渡し、イエスに聞き従いましょう。
イエスは、私たちの人生を最高の人生へと作り変えて下さいます。

Filed under: イエスの奇跡(ヨハネの福音書)伊藤正登牧師