17.1.22.
永遠のいのちを与えるパンを求める
ヨハネ6章
イエス様は、数々の奇跡を行われましたが、その中でも最も大きな奇跡の一つは、
五つのパンと二匹の魚で男だけで5千人の人々を食べさせたという奇跡です。
特に、ヨハネは、この奇跡に関連して、大切なことを教えています。
1.パンをくださるイエス様を王としようとした群衆
イエス様の元には大勢の群衆が集まっていましたが、
それは、彼らがイエス様の行われる奇跡を見たからでした。6:2。
彼らは、さらに、イエス様によって行われる奇跡を見たいと願ったのかもしれません。
イエス様は、「少年」が持っていた「大麦のパン五つと小さい魚二匹」(9)によって、
「男たち」だけで「五千人」(10)の人たちを「十分」(12)食べさせました。
「人々は、イエスのなさっていたしるしを見て」、イエス様を「預言者だ」(14)と言い、
イエス様を「王とするために、むりやりに連れて行こうと」(15)しました。
彼らは、イエス様が王になってくれたら、
自分たちが食べることに困らないだろうと考えたのでしょう。
そこで、イエス様は、「ただひとり、また山に退かれた」(15)のです。
イエス様が来られたのは、この世の王となるために来られたのではなく、
しもべとなり、私たちを救うために、十字架にかかって死ぬためでした。
それゆえイエス様は、人々の熱狂によって、王に祭り上げられることを避けられたのです。
しかし、翌日、人々は「イエスを捜してカペナウム」(24)までやって来ました。
そんな彼らに対して、イエス様は言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、
しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26)
人々が求めていたのは、イエス様ではなく、イエス様が与えて下さるパンだったのです。
彼らは、イエス様を王にしようとしていましたが、
それは単にイエス様によって自分たちの腹を満たしてもらいたかっただけであり、
イエス様を利用しようとしていただけだったのです。
2.いのちのパンであるイエス様を求める
私たちも、この群衆のように、パンを与えて下さるイエス様を求めるのではなく、
パンだけを求めて、イエス様の元に来るということはないでしょうか。
イエス様よりも、お金、物、仕事、友人、趣味、遊びなどを求めていないでしょうか。
もし、イエス様よりもパンを求めるだけなら、この群衆のように、
イエス様を自分のために利用しようとしているだけではないでしょうか。
神様を自分のために利用する信仰は利己的であり、人間中心の信仰です。
私たちは、自分でも気付かない内に、神様中心の信仰ではなく、
人間中心(自分中心)の信仰となってしまってはいないでしょうか。
しかし、信仰生活の中心は自分ではなく、神様であるべきなのです。
神様が人生の主役であり、私たちの王なのです。
神様が私たちのために存在しているのではなく、
私たちが神様のために存在していることを知らなくてはなりません。
群衆に対して、イエス様は言われました。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、
永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(27)
「わたしはいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)
「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(51)
イエス様は、パンすなわちこの世の物を求めるのではなく、
イエス様ご自身を求めるようにと言われたのです。
3.永遠のいのちに与る人生
群衆は、イエス様を「食べる」なら、「永遠のいのち」が与えられると聞いて驚きました。
そして、自分たちが願っているパンはもらえないと分かると、
「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(66)のです。
「いのちのパン」であるイエス様を「食べる」ということは、
イエス様を信じるということです。
イエス様が私たちの罪を負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかり、
死んで下さり、またよみがえって下さったと信じるなら、
私たちの罪は赦され、私たちは「永遠のいのち」をいただくことが出来ます。
「永遠のいのち」とは、単なる「死後のいのち」ではありません。
イエス様を信じた時に、すぐに受けることの出来るものです。(47)
ヨハネ17:3では、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」とあります。
この「知る」という言葉は、単に知的に知ることではなく、
人格的な交わりによって「知る」ということです。
すなわち、「永遠のいのち」とは、いのちの源である神様と共にある人生なのです。
神様と共にある人生には、本当の喜び、平安、希望があります。
私たちが神様を慕い求め、神様に近づき、神様と共にある時、
私たちに必要なものは全てあたえられます。マタイ6:33。
イエス様は、葡萄の木の例えで、イエス様にとどまるようにと言われました。ヨハネ15:4,5。
人間的な努力や労苦は全て無駄になってしまいます。詩篇127:1,2。
ですらか、「いのちのパン」であるイエス様と共にあることが、幸いな人生なのです。
私たちは、永遠なる神様と共に歩むことの恵みを忘れてしまっていないでしょうか。
本当に幸いなことは、「いのちのパン」であるイエス様を求め、信じ受け入れ、
神様と共に歩むことの出来る人生なのです。
「永遠のいのち」を与える「いのちのパン」であるイエス様を求めましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師