15.5.24.
渇いている者は来て飲みなさい
ヨハネ7:37-39
「ペンテコステ」は「五旬節」というユダヤ教の三大祭の一つでした。
「五旬節」とは、「50日目の祭日」という意味で、
大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われました。レビ23:15~。
また、7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれました。出エ34:22、申命16:10。大麦の収穫の終りを意味し(申命16:9)、小麦の収穫となります。出エ34:22。
それゆえ、「刈り入れの祭り」(出エ23:16)、「初穂の日」(民数28:26)とも呼ばれています。
キリスト教会にとって、「ペンテコステの日」は「聖霊降臨祭」とも言われ、
弟子たちに聖霊の注ぎと満たしが与えられ、教会が誕生した記念すべき日なのです。
1.生ける水の川々が流れ出る
「祭りの終わりの大いなる日」(37)とありますが、この祭りは「仮庵の祭り」のことです。
仮庵の祭りについては、レビ23:34-36、申命16:13-15に記されています。
これはユダヤ人たちがエジプトを脱出し、荒野で天幕に住んだことを記念した祭りです。
今でもユダヤ人は祭りの期間中は屋外に仮小屋を建てそこで過ごしています。
「祭りの終わりの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日、第8日目の集会の日でした。
イエス様の時代には、祭りの期間中毎日、シロアムの池から神殿に黄金の器で水が運ばれ、
朝と晩にいけにえが捧げられる時、供え物と一緒に祭壇の西に注がれました。
これはモーセが岩から水を出したしたことを記念する儀式でした。出エジプト17:1-6。
そして、この岩はキリスト、水は聖霊を意味するものだったのです。Ⅰコリント10:4。
水が神殿に運び込まれる時、人々は楽器を持って、
イザヤ12:3の賛美と踊りをもって喜びながら水を運びました。
しかし、イエス様は本当に喜びを与える水は「生ける水」であるということを
祭壇に注がれるシロアムの池の水と重ね合わせて言われたのです。
そして、この「生ける水」とはクリスチャンに与えられる「聖霊」のことでした。
ヨハネ4:14はイエス様を信じた時に「永遠のいのち」が与えられるという新生の体験です。
私たちが新しく生まれ変わるという新生体験は、聖霊の働きによるものです。
しかし、「生ける水の川」とは、イエス様を信じる者に注がれる聖霊の満たしの体験です。
新生の時に「泉」が与えられ、聖霊の満たしの際は更に大きな「川」となるのです。
そして、この「川」という言葉は、原語のギリシャ語では複数形となっています。
また、新改訳では「心の奥底」と訳されていますが、原語では「腹」となっています。
イエス様を信じる者には「腹の底から生ける水が川々となって流れ出る」のです。
イエス様は「聖書が言っているとおりに」と言われましたが、
これはエゼキエル47:1-12で、預言者エゼキエルが見た新しいエルサレムの神殿の幻です。
神殿から流れ出た水は大きな川となり、全てのものを生かす流れとなりました。
イエス様はこの幻がイエス様を信じる者に成就することを約束されたのです。
そして、その約束は五旬節の日に聖霊が注がれることによって成就しました。使徒2:1-4。
この日以来、クリスチャンは誰でも聖霊の満たしを受けることが出来るようになりました。
2.渇きをもって求める
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。
このイエス様の言葉も旧約聖書からの引用によるものでした。イザヤ55:1。
イエス様は私たちにご自分の元に来て、聖霊の満たしを求めるようにと言われたのです。
「生ける水の川」である聖霊の注ぎを求めるためには、飢え渇きが必要です。
深刻な問題は、自分が干からびて、飢え渇いていることが分かっていないということです。
エゼキエル37:1-14に預言者エゼキエルが見た「干からびた骨の幻」があります。
その状態は「ひどく干からびて」いて、命がない状態でした。
クリスチャンの中にも、霊的に干からびた状態の人たちがいるのではないでしょうか。
クリスチャンでありながらも、神様との交わりが薄れ、
霊的な命の供給が止まってしまって、霊的に干からびてしまっている人がいるのです。
クリスチャンが霊的ないのちを失ってしまうとどうなるのでしょうか。
救いの喜びが薄れ、感謝しなくなり、神様の恵みも、神様のことも分からなくなります。
自分の事に忙しくなり、自己中心的になり、形式的、表面的な信仰生活となります。
罪に対して鈍感になり、この世に流され、世と妥協的な歩みをします。
霊的な命に欠けた名ばかりのクリスチャンとなってはいないでしょうか。
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。
イエス様はよみがえられた後、弟子たちに「息を吹きかけて」、
「聖霊を受けなさい」と命じられました。ヨハネ20:22。
また、イエス様は天に昇られる前にも、弟子たちに「父の約束を待ちなさい」、
すなわち聖霊の満たしを待ち望むようにと命じられました。使徒1:4,5。
そして、イエス様が天に上げられた後、弟子たちは聖霊を求め、
「みな心を合わせ、祈りに専念していた」(使徒1:14)のでした。
すると「五旬節の日」に聖霊が彼らに臨み、みな「聖霊に満たされ」たのです。使徒2:1-4。
イエス様を信じる者の内には既に聖霊が内住しておられますが(Ⅰコリント3:16)、
イエス様は聖霊の満たしを求めるようにと語っておられます。
そして、聖霊の満たしを求める者に聖霊の満たしが与えられるのです。ルカ11:9,13。
人間は神様に似た者として造られ(創世1:26,27)、塵によって形作られました(創世2:7)。
そして、「いのちの息」すなわち神の霊を吹き込まれて生きる者となりました。創世2:7。
人間は神様の霊によって生きるように初めから造られているのです。
ですから、人間から神様の霊が失われてしまうと、霊的に死んでしまうのです。
霊的ないのちを失い干からびた状態になった人を生き返らせるためには、
いのちの御霊、聖霊による命が必要なのです。Ⅱコリント3:6。
「生ける水の川」である聖霊の注ぎと満たしを受ける時、霊的な命が与えられます。
私たち自身だけではなく、私たちの周りの人々をも生き返らせるのです。
「生ける水の川」である聖霊を飢え渇きをもって求めましょう。
求める者には、「腹の底から生ける水が川々となって流れ出る」のです。
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