熱くあってほしい(後)
黙示3:14-22
21.10.17.
ラオデキヤ教会は、「冷たくもなく、熱くもない」「なまぬるい教会」でした。ラオデキヤ教会は、豊かさと平和のために、主を求めたり、主に祈ったりしなくなり、信仰が生ぬるくなってしまったのです。主は、なまぬるくなってしまったラオデキヤ教会に、何を語られたのでしょうか。
1.勧めの言葉 : 精錬された金、白い衣、目薬(18)
ラオデキヤ教会に対して、3つの勧告がされました。
① 豊かな者となるために火で精錬された金を買いなさい
ラオデキヤ教会は、経済的物質的に豊かでしたが、精神的には貧しかったのです。彼らは、本当の喜び、感謝がありませんでした。そのようなラオデキヤ教会に、主は「豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから飼いなさい」と語られました。「火で精錬された金」とは何度も火に入れられ精錬され、純度が高められた金のことです。信仰も試練の火を通され、不純な物が取り除かれ、「純粋な信仰」となります(Ⅰペテ1:7)。ですから、「火で精錬された金」とは「純粋な信仰」を意味します。
「純粋な信仰」とは、どのような時にも、主を信じ信頼し、主に従う信仰です。どのような時にも、いつも喜び、全てにおいて感謝する信仰です。Cf.Ⅰテサ5:16-18。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)というヨブの信仰です。主は、ラオデキヤ教会に、豊かな時も貧しい時も、平和な時も迫害の時も、主にあって喜び、全てにおいて感謝する「純粋な信仰」を求められたのです。
② 裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい
ラオデキヤ教会は、神を愛すると言いながら、この世を愛していました。主は「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい」と語られました。「白い衣」は、その白さを増すために、何度も冷たい水で洗われます。ですから、「白い衣」とは、「きよめ」を意味します(黙7:13-14)。ですから、「裸の恥を現さないために着る白い衣」を買うということは、この世の富や楽しみを追い求める生活ではなく、きよい生活を送るということです。この世と神の両方を愛することも、その両方に仕えることも出来ません(Ⅰヨハ2:15-17)。主は、ラオデキヤ教会にこの世から聖別されたきよい歩みをするように求めたのです。
③ 目が見えるようになるために目薬を買いなさい
主は、ラオデキヤ教会が、「盲目」であると言われました。ラオデキヤ教会の信者たちは、目に見える一時的なものばかりに囚われていて、目に見えない永遠に続くものに心の目が閉ざされていたのです。Cf.Ⅱコリ4:18。主は、ラオデキヤ教会に「見えるようになるため、…目薬を買いなさい」と言われました。私たちの霊的な目を開くものは、御言葉と御霊です。御言葉によって、価値あるもの、大切なものを見分けることが出来ます(詩119:130)。また、「真理の御霊」である聖霊は、私たちを「すべての真理に導き入れます」(ヨハ16:13)。
主は、「火で精錬された金」と「白い衣」と「目薬」を「買いなさい」と言われました。「買う」ということは、何かを犠牲にしてまでも求めるようにということです。それは、ラオデキヤ教会にとっては、この世の富や楽しみでした。世の富や楽しみを犠牲にして、「金」と「白い衣」と「目薬」を求めるのです。
2.悔い改めへの勧め(19-20)
ラオデキヤ教会に対する主の叱責の言葉は、厳しいものでした。それは、愛するゆえの叱責であったのです(ヘブ12:6、箴3:11-12)。ですから、主は、「熱心になって、悔い改めなさい」と命じられました。「悔い改め」とは、心と行ないの変化であり、生き方を全く変えるということです。一言で言うなら「方向転換」です。Cf.「放蕩息子の例え」(ルカ15:11-32)。
どのように方向転換したらよいのでしょうか。主は、ラオデキヤ教会に語りかけました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」この言葉は、伝道集会の時に用いられますが、本来は未信者に対してではなく、ラオデキヤ教会の信者たちに対して語られている言葉です。主は、ラオデキヤ教会の外にしめ出されて立たされている状態でした。ラオデキヤ教会は、主から遠く離れてしまっていた状態だったのです。
信仰がなまぬるくなってしまっているのは、イエスから遠く離れ、この世を求め、イエスとの交わりがなくなってしまったからです。そのようなラオデキヤ教会に、主ご自身が近づき、呼びかけられたのです。
主は、私たちが心の「戸をあけるなら」、入って来られ、「ともに食事を」して下さいます。「ともに食事をする」とは、最も親密な交わりを意味しました。そして、主との交わりが回復される時、心は再び燃え上がり、熱い信仰をもって主に従い仕える者となるのです。
3.勝利を得る者に対する約束(21)
「勝利を得る者」とは、最後まで信仰を守り通した人のことです。特に、ラオデキヤ教会の場合は、この世の富と楽しみの誘惑に打ち勝って、最後まで熱心な信仰を守り通した人と言えるでしょう。「わたしとともにわたしの座に着かせよう」とは、「千年王国での主との共同統治」です。主は、この世界に再臨され、反キリストと偽預言に勝利し、千年王国を打ち建てます。そして、主は、その王座に着き、世界を統治します。その時、「勝利を得る者」たちは、主と共に王座に着き、世界を統治するのです(黙20:4)。これは、私たちにとって、輝かしい未来、光り輝く希望です。
ラオデキヤ教会のように、信仰的霊的になまぬるくなってはいないでしょうか。主は、「冷たいか、熱いかであったほしい」と語られました。勿論、主が求めておられるのは、信仰が熱く燃やされているということです。主を求め、聖霊に満たされ、信仰の炎を燃やされ、主に仕えていきましょう。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ロマ12:11)
Filed under: アジアの7つの教会へのメッセージ • 伊藤正登牧師