15.9.13.

熱くあってほしい

黙示3:14-22

エペソ教会には非難されるべき点がありましたが、称賛される点もありました。
しかし、ラオデキヤ教会には、賞賛の言葉はなく、非難の言葉しかありませんでした。
ラオデキヤ教会はどのような教会だったのでしょう。
主は、ラオデキヤ教会にどのようなことを語られたのでしょう。

1.生ぬるい信仰-霊的に貧しく、盲目で、裸な状態

ラオデキヤ教会は、信仰的・霊的に「なまぬるい教会」として非難されました。(15,16)
ラオデキヤ教会の人々の信仰は、熱くも冷たくもない、中途半端な状態だったのです。
表面的には立派な教会だったのでしょうが、熱心さのない教会となっていたのです。
ラオデキヤ教会から熱心さを奪い、生ぬるくさせた原因は、「富」すなわち「豊か」さでした。
ラオデキヤは商業都市として栄え、教会もその町の雰囲気に影響されていたのでしょう。
ラオデキヤ教会は、物質的繁栄と豊かさの中で、自己満足の状態にあったのです。
彼らは、豊かさの中で、痛くも痒くもない生ぬるい環境の中にどっぷりと浸かり、
神様なしでも問題なくやっていける状態にありました。
ですから、神様を求めて熱心に祈ったりする必要性も感じませんでした。
彼らは全てにおいて満ち足りていたため、信仰が生ぬるくなってしまったのです。
しかしイエス様は彼らに実際には「貧しく、盲目で、裸の者である」と言われました。

① 貧しさ

彼らの喜び、満足、感謝、平安は、経済的な豊かさや物質に依存したものであり、
決して満ち足りることはなく、絶えず更なる豊かさを求め、
豊かさを失う不安につきまとわれ、豊かさを失うと喜びも失われてしまうものでした。

② 盲目

彼らは経済的豊かさや物質的豊かさの中で、
何が本当に価値のあるものであるかを見ることが出来なくなっていました。
ただ目先の一時的な喜びや楽しさだけで満足し、永遠に価値あるものや、
信仰的・霊的に大切にしなければならないものが分からなくなっていました。

③ 裸

彼らはあらゆる物を持っているようでも、神様の前では何も持っていない状態でした。
彼らは実際には「みじめで、哀れ」な「裸の王様」のようになってしまっていたのです。
ラオデキヤ教会は、この世の富と豊かさに惑わされ、それによって心満たされ、
主にある本当の富と豊かさを見失ってしまっていたのです。

2.熱心な信仰-精錬された金、白い衣、目薬

主は「冷たいか、熱いかであったほしい」と言っておられますが、
主が求めておられるのは、信仰において熱心であるということです。
ラオデキヤ教会に対して、三つの勧告がされました。

① 豊かな者となるために火で精錬された金を買いなさい

「火で精錬された金」とは何度も火に入れられ精錬され、純度が高められた金のことです。
信仰も何度も試練の火を通されて、純粋な信仰となっていきます。Ⅰペテロ1:7
「火で精錬された金」とは、本物と認められた「純粋な信仰」を意味します。
本物の純粋な信仰とは、目に見える物や状況に依存しない信仰です。へブル11:1
それは、目に見える物があってもなくても、状況が良くても悪くても、
どのような時でも、神様を信じ、神様に感謝し、神様をほめたたえる信仰です。
それこそが神様に喜ばれる信仰であり、本当に価値のある、称賛に価するものなのです。
熱心に主を呼び求め、聖霊の「火」で燃やされた熱い信仰を持ちましょう。

② 裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい

「裸」であるということは、人間の生まれながらの姿のことです。
それは、人間が生まれながら持つ肉の性質、すなわちエゴ、プライド、様々な欲望であり、
エゴとプライドを満たすために欲望のままに生きることです。
それは、Ⅰヨハネ2:16にある「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」と言えます。
主はラオデキヤ教会のクリスチャンたちに、「白い衣を買いなさい」と語られました。
「白い衣」とは、「きよめ」を意味し、この世の富や物質的な豊かさを求めるのではなく、
きよめられた生活をするということです。ローマ13:14。Cf.Ⅰテモテ6:6-10,17-18
聖霊を求め聖霊に満たされ、肉によってではなく聖霊によって歩みましょう。ガラテヤ5:16

③ 目が見えるようになるために目薬を買いなさい

私たちの霊的な目が開かれるためには、御言葉が必要です。
御言葉によって、真理と偽り、本当に価値あるものを見分けることが出来ます。詩篇119:130
また、私たちの霊的な目を開いて、真理を悟らせ、真理へと導いて下さるお方は聖霊です。
聖霊によって、私たちの霊的な目が開かれるのです。ヨハネ16:13
日々、祈りのうちに御言葉から神様からの語り掛けを聞くことが必要です。マタイ4:4
私たちの霊的な目が開かれるために、熱心に御言葉を学び、聖霊を求めましょう。

ラオデキヤ教会に対する主の非難と叱責は厳しいものでした。
それは、主がラオデキヤ教会を愛しているからであり、愛するゆえの叱責であったのです。
だからイエス様は、「熱心になって、悔い改めなさい」と命じられました。ヘブル12:5,6

ラオデキヤ教会は、イエス様が教会の外にしめ出されて立たされている状態、
教会がイエス様から遠く離れてしまっている状態でした。
信仰が生ぬるくなってしまったのは、イエス様を外にしめ出し、イエス様から遠く離れ、
イエス様との交わりがなくなっているからではないでしょうか。
しかし、イエス様の方から私たちに近づき、私たちの心の扉をたたいておられます。
イエス様は、戸を開く者の内に入って来られ、「ともに食事を」して下さいます。
「ともに食事をする」とは、親密な交わりを意味します。
イエス様との親しい交わりが豊かなものへと回復される時、
私たちの心は再び燃え上がり、熱い信仰をもって主に従い仕える者となるのです。

Filed under: 伊藤正登牧師