20.12.13.
マタイは、福音書の中で、イエスを王なるキリストとして描いています。
1.東方の博士たちの来訪
イエスが生まれたのは、「ヘロデ王の時代」(1)でした。「ヘロデ王」は「ヘロデ大王」と呼ばれ、BC37年からAD4年までユダヤを治めていました。ヘロデはユダヤ人ではなく、イドマヤ人(エドム人:エサウの子孫)でしたが、当時ユダヤを支配していたローマ帝国がヘロデにユダヤの統治を委ねていたのです。
「東方の博士たちがエルサレムにやって」(1)来ました。「東方」とは、かつてバビロニア帝国のあったメソポタミア地方であると考えられます。昔、ユダヤ人たちは、バビロニア捕囚によって、その地域に強制移住させられました。ですから、その地域では、ユダヤ人の文化、宗教、習慣などがよく知られていました。
「博士たち」とは、ギリシヤ語で「マゴス」と言い、魔術師や占星術者のことです。ある時、「博士たち」は、星の観測をしている時に、不思議な星を発見しました。その星は「ユダヤ人の王」、すなわちキリストの誕生を知らせる星でした。「博士たち」は、キリストについての旧約聖書の預言を知っていたのでしょう。民24:17にも「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり」とあります。
「博士たち」は、遠く離れた東の国から旅をして、エルサレムまでやって来ました。昔は、道路も交通も発達していませんし、地図も不完全なものでした。途中、山賊や強盗が待ち伏せていたり、様々な多くの危険があったことでしょう。また、何千キロにも及ぶ旅には、多くの時間と労力と費用がかかったことでしょう。このように、「博士たち」は、多くの犠牲を払って、エルサレムまでやって来たのです。それは、ただ「ユダヤ人の王」であるキリストを礼拝するためでした。「ユダヤ人の王」キリストは、多くの犠牲を払っても礼拝するに相応しいお方なのです。
2.ヘロデ王、エルサレムの人々、祭司長と学者たちの反応
① ヘロデはキリストを否定した
「ヘロデ」は、自分以外に「ユダヤ人の王」が生まれたということを聞いて、新しい「ユダヤ人の王」によって、自分の立場や地位が奪われることを恐れました。「ヘロデ」は、博士たちに「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」(8)と言って、博士たちを送り出しましたが、それは偽りであり、キリストがいる場所を突き止めて、殺害するつもりでした。「ヘロデ」はキリストを否定しようとしたのです。
② エルサレムの人々はキリストよりも平穏な生活を求めた
エルサレムの人々は、「ヘロデ」の性格をよく知っていました。「ヘロデ」は、自分の妻や子どもを処刑するほど残酷でした。ですから、エルサレムの人々は、「ユダヤ人の王」が自分以外の王が生まれたことを聞いて、ヘロデが何か酷いことをするのではないかと不安な気持ちを持っていたのです。エルサレムの人々は、本当の「ユダヤ人の王」が現れることよりも、自分たちの生活が守られ、問題のない平穏な生活を求めていたのです。
③ 祭司長と学者たちはキリストに無関心
「祭司長たち、学者たち」は、キリスト誕生の場所が「ユダヤのベツレヘム」(5)であることを知っていました。なぜなら「預言者」ミカがキリスト誕生の場所について預言していたのからです(ミカ5:2)。ユダヤ人たちが昔から待ち望んで来たキリストの誕生の知らせは、本来は喜ばしいことであったはずです。しかし、誰も「ユダヤ人の王」であるキリストを礼拝しに行きませんでした。彼らは、「ユダヤ人の王」であるキリストの誕生に無関心であったのです。
このように、「ユダヤ人の王」であるキリストのすぐ近くにいた人々は、誰もこの方を受け入れませんでした(ヨハ1:11)。
3.博士たちの礼拝
「博士たち」は、イエスの前に出て「ひれ伏して」拝みました。「ひれ伏して拝んだ」という言葉は、ギリシヤ語で「プロスクネオ」といい、「頭を低く下げ、または跪いて、相手を誉め称える」という意味です。この言葉は、新約聖書では「礼拝する」と訳されています。礼拝とは、主の前にひれ伏し、主を高く上げるということです。「博士たち」は、単に儀礼的な挨拶をしたのではなく、「幼子」のイエスを礼拝したのです。
「博士たち」は、イエスの前に「黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ」(11)ました。「博士たち」は、何の報いも求めずに、ただイエスに「贈り物」をささげたのです。礼拝とは、私たちが何かを受けることではなく、私たちが主にささげるものです。
「博士たち」の「贈り物」は、イエスがどのようなお方であるかを示すものでした。「黄金」は王にささげられるもので、イエスが「王」であることを示しています。「乳香」は、神にさげられるもので、イエスが「神」であることを示しています。「没薬」は、埋葬の時に死体に塗るもので、イエスが十字架の死によって、私たちを贖って下さる「贖い主」であることを示しています。
「博士たち」は、非常に高価な最高のものをイエスにささげました。礼拝とは、最高なお方である主に最高のものをささげるということです。「博士たち」は、イエスが高価な「贈り物」に相応しいお方であると知っていたのです。
「東方の博士たち」は、遠く「東方」の国から、様々な困難や危険を覚悟し、多くの犠牲を払って「エルサレム」にやって来ました。また、「東方の博士たち」は、「幼子」のイエスの前にひれ伏し礼拝しました。さらに、「東方の博士たち」は、「黄金、乳香、没薬」という最高のものをささげました。それは、イエスが私たちの最高の礼拝を受けるに相応しい方、「ユダヤ人の王」であるキリストであるからです。私たちも「東方の博士たち」のように、王なるキリストを礼拝しましょう(黙5:12)。
Filed under: 伊藤正登牧師