王なるキリストを迎えよう

マタイ21:1-11

21.3.7.

受難週は、イエスが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城するところから始まります。この出来事は、イエスがどのようなお方であるかということを示す出来事でした。

1.イエスは預言された王(キリスト)として来られた

イエスと弟子たちは、エルサレム近くの「オリーブ山のふもとのベテパゲ」(1)にいました。イエスは、「ふたり」(1)の弟子に言いました。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。」(2) そして、「もしだれかが何かを言ったら」、「主がお入用なのです」と言えば、「すぐに渡してくれます」と言われました(3)。

この時、弟子たちは、イエスがなぜ「ろばの子」を連れて来るように言われたのか理解していませんでした。それが本当に理解出来るようになったのは、イエスが天に上られた後でした(ヨハ12:16)。マタイは、「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである」(4)と言っています。その預言とは、ゼカ9:9です。この「王」とは、「メシヤ」すなわち「キリスト」のことです。これは、「キリスト」が「子ろば」に乗って、「エルサレム」に来るという預言だったのです。そしてその預言の通り、イエスは「ろばの子」に乗って「エルサレム」に入られました。つまり、イエスは、旧約聖書で預言されている「キリスト」であったということです。

2.イエスはへりくだった平和の王として来られた

① へりくだって来られた王イエス

イエスの時代、ろばは庶民の乗る動物、荷物を運ぶ家畜でした。しかも、イエスが乗ったろばは「荷物を運ぶろばの子」(5)でした。マコ11:2には、「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」であったとあります。つまり、まだ役に立たない、劣った、価値のないものでした。この「ろばの子」は、「へりくだり」を象徴するものだったのです。

ゼカリヤは、キリストが「柔和で、ろばの背に乗って」来られると預言しました。この「柔和」には「へりくだった」という意味があります。その他にも、「苦しみを受けた貧しい惨めな忍耐深い」という意味もあります。この「柔和」という言葉は、「受難のキリスト」を表わす言葉であったのです。キリストは、神であられたのに、へりくだって人間の姿になって来て下さいました。そして、キリストは、私たちを救うために、貧しくなり苦しめられ、十字架にかかって惨めな死を遂げ、その苦しみを耐え忍ばれたのです(ピリ2:6-8)。イエスは、「へりくだって来られた王キリスト」なのです。

② 平和をもたらす王イエス

また、イエスが立派な馬ではなく、「ろばの子」に乗って来られたということは、イエスが「戦いの王」ではなく、「平和の王」として来られたことを意味しています。ゼカリヤもキリストが平和をもたらすと預言しました(ゼカ9:10)。

イエスは、「神との平和」を与えるために来られました。「神との平和」があれば「心の平和」も「人との平和」も得られます(ヨブ22:21)。しかし、まだ罪があるうちは、神との敵対関係にあります。イエスは、私たちの罪を負って、十字架で死なれ、私たちの罪を処分して下さいました。そして、「神との平和」を持てるようにして下さったのです(ロマ5:1コロ1:19-20)。イエスは、「平和をもたらす王キリスト」なのです。

3.イエスを自分の王とする

人々は、「自分たちの上着を道に敷き」、「木の枝を切って来て、道に敷い」て(8)、「ダビデの子にホサナ」(9)と叫んで、イエスを大歓迎しました。「ダビデの子」とは、「キリスト」の称号であり、「」のことです。神は、ダビデの子孫から王を起こし、その王国は永遠に続くと約束されました。これは、Ⅱサム7:11-16に記されている「ダビデ契約」です。そして、その約束通り、イエスは「ダビデの子孫」(マタ1:1)として生まれたのです。また、「ホサナ」とは、ヘブル語で、「どうか、救って下さい」という意味です。やがて、本来の意味が失われて、神をたたえる言葉として使われるようになりました。人々は、イエスを来るべきキリスト、王として熱烈に賞賛し歓迎したのです。

しかし、人々は、イエスに対して間違った期待をしていました。当時のユダヤ人たちは、武力によって、イスラエルをローマ帝国の支配から解放し、再びイスラエル王国を建ててくれるキリストを待ち望んでいました。しかし、イエスは、そのような政治的・軍事的な王として来られたのではありません。ですから、人々は、イエスが自分たちの期待に応えてくれないことが分かると、この数日後には、イエスに対して「十字架につけろ」(15:13-14)と叫ぶようになりました。結局、人々は、自分たちに都合の良い王を求めていたのです。自分たちの願いをかなえてくれる王、自分たちを幸せにしてくれる王を求めていたのです。

5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々を満腹にさせる奇跡が行われた時も、人々はイエスを王にしようとしました(ヨハ6:15)。私たちも、イエスを自分の願いを実現させるための存在と考えてはいないでしょうか。キリストを自分のために利用するのではなく、キリストを王としてあがめ、王なるキリストに従い、仕えなければならないのです。コロ1:16には、「万物は、御子によって造られ、御子のために造られた」とあります。キリストの栄光が現わされることが最終目的でなければならないのです。

 

キリストは、約2千年前には「へりくだった王」として来られましたが、次に来られる時には、「栄光の王」として来られます(詩24:7-10)。「王なるキリスト」の栄光が現わされることを求め、「王なるキリスト」に従い仕え、やがて来られる「王なるキリスト」をたたえましょう。

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