Ⅰ列王記19:1-18
240825
私たちは時々、努力しても何も変わらず、自分の無力さに気づいて落胆したり、絶望したり、心が疲れ果てて元気を失ってしまいます。そのようなとき、主のいやしと励ましを受けるにはどうしたら良いのでしょうか。エリヤも同様の経験をしました。エリヤの話から学びましょう。
1.落胆したときは主を求める
エリヤは主のために一生懸命働き、命がけでバアルの預言者たちと戦いました。神はエリヤの祈りに応えて、天から火を降らせてくださいました。その時、一時的にイスラエルの人々は神に立ち返りましたが、エリヤは王妃イゼベルに命を狙われ、逃げなければなりませんでした。彼は落胆し、神に自分の死を願って祈るほどでした。しかし、神はエリヤに生きるように導かれました。神は御使いを遣わし、エリヤに食事を与え、睡眠をとらせて、ホレブの山へと導かれました。神は彼を御前に進み出させ、彼の力を回復しようとされたのです。ホレブの山は、かつて神がそこに降りて来られ、モーセを通してイスラエルの民に十戒を授けた場所です(出エジプト19:20–20:17、申命記5:2-21)。神と人とが出会った山であり、契約を交わした山です。
食事や睡眠も人間の力を回復させますが、それだけでは絶望の中にいる人を回復させられません。主を求める者には力が与えられるのです(イザヤ40:28-31)。イエスも「疲れた人は私のところに来なさい」と言われました(マタイ11:28)。食事や睡眠、人からの励ましなど、人間的な助けは、その人が主の御前に進み出るために必要です。しかし、最もその人を力づけるのは、その人自身が神を求め、イエスを信じ受け入れることです。もし私たちが落胆している人に出会ったら、イエスの御元へと導きましょう。
2.自分の殻から出る
エリヤはホレブの山に着き、そこにあるほら穴に入りました。神の山にいても、エリヤはほら穴の中に隠れて閉じこもっていたのです。主はそこで彼に「ここで何をしているのか。」と語られました。彼は自分の苦しい境遇を話しましたが、主は答えを与えず、「外に出て、主の前に立て。」と仰せられました(Ⅰ列王記19:11)。
たとえ神の臨在する山に行っても、自分自身が閉じこもっていたら神と出会えません。主の力を受けるためには、自分の殻から出て、主の御前に立たなければなりません。自分の殻とは、自分の考えや自分の計画であり、自分中心の考え方です。自分の問題を神に明け渡したくない。自分のやり方を変えたくないという自我であり、心を閉ざしてしまうことです。しかし、自分の殻を破るとは、主に真心から従おうとすることです。言われたことを何でもするという素直な心であり、心にあることを何でも話せる開かれた心です。そのとき、私たちは御前に立てるのです。私たちは主イエスの贖いにより、大胆に主の御前に近づくことができます(へブル4:16)。私たちは主の御前で、心に抱える自分の悩みを打ち明けることが必要なのです。
3.主の細き御声を聞く
かつて、神が十戒を授けるために降りて来られたとき、火と地震がありました(出エジプト19:18)。エリヤがこの山のほら穴にいるときも、大風が吹き荒れ、地震が起こり、火が出現しました。しかし、この時、主はこれらの中におられませんでした。その後に細き御声がありました。この声を聞くとエリヤは外套で顔を隠し、ほら穴から出て神の御前に立ちました。エリヤが外套で顔を隠したのは、神を直接見て死なないためでした。それほど神は彼の近くに来てくださったのです。その時、主はエリヤに御言葉を与えてくださいました。エリヤは、神が新しい王と預言者を用意しておられたことを知り、神がイスラエル人の中にバアルに従わなかった人を7000人も残しておられたことを知りました。エリヤが主のために一生懸命働いたことは無駄ではなかったのです。エリヤは主の御言葉によって大いに励まされ、元気を回復しました。
私たちは日々聖書を読み、主の集会に参加し、御言葉を聞くことができます。だれでも御言葉に耳を傾けるとき、主の御前に立っているのです。そのとき、主は特別な御言葉をもって応えてくださいます。ですから、私たちも主が自分に今語られている御言葉を聞くことが大切です(マタイ4:4)。また、祈りの中で主に呼び求めるとき、主の御言葉に耳を傾けるとき、主は聖霊によって私たちの心に語りかけ、御言葉を思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26)。その御言葉は私たちの抱える問題に対する神からの答えです。主の御言葉によって私たちは励まされ力が与えられます。現実はまだ見ていなくても、それは真実です。主はすでに答えて下さったのです。私たちはただ感謝して信じることが大切です。
まとめ
エリヤは主から御言葉を受けたとき、本当に力を回復しました。主は聖書の御言葉を示し、私たち祈りに応えてくださいます。私たちも、たとえ絶望によって心が弱り果てていても、主の御前に進み出て、御言葉を受けるとき、喜びと感謝が内側から沸き起こり、心は回復し、再び主とともに生きることができるのです。
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