16.7.3.

神の贈り物をいただいたマタイ

マタイ9:9

新約聖書の最初の書は「マタイの福音書」であり、
伝統的には使徒マタイが記したと考えられています。
マタイは、イエス様の12弟子の一人でしたが、どのような人物だったのでしょう。

1.イエス様に招かれたマタイ

マタイとイエス様との出会いは、マルコ2:14ルカ5:27にも記されています。
「マタイ」という名前の意味は「神の贈り物(賜物)」です。
この名前には、マタイが受けた神様の恵みが表されています。
マタイは「取税人」で、人々から税金を徴収する仕事をしていました。
ローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を徴収する取税人は、
ユダヤ人からは「裏切り者」、「売国奴」とみなされていました。
また、彼らは異教徒であり偶像礼拝者であるローマ人と接する機会が多いため、
異邦人と同様に「汚れた者」、強盗や殺人者と同じような「罪人」とみなされていました。
さらに、取税人たちは、ローマ帝国に納める以上の多くの税金を人々に請求し、
その差額を自分の収入とし、私腹を肥やしていました。
このため、取税人たちは、人々から非常に嫌われ、憎まれていたのです。
取税人たちは、会堂からも締め出され、社会ののけ者にされていました。
この場面で、マタイは、道端の「収税所にすわって」いたとあるので、
道行く人々から通行税などを徴収する取税人だったのでしょう。
そこを通りかかったイエス様からも徴収しようと、手をさし伸ばしたのかもしれません。
すると、イエス様はマタイに「わたしについて来なさい」と声をかけられました。
イエス様から声をかけられ、ザアカイと同じような気持ちだったのではないでしょうか。
ザアカイは、イエス様に声をかけられ、「大喜びでイエスを迎えた」(ルカ19:6)とあります。
それで、マタイは直ぐに「立ち上がって、イエスに従った」のです。
この「立ち上がって」は、ギリシヤ語では「復活する」という意味でも用いられる言葉です。
マタイが「収税所にすわって」いたところから「立ち上がって、イエスに従った」とは、
マタイの人生が180度変えられたことを示しています。
すなわち、マタイは、罪深い人生の中に座り込んでいましたが、
イエス様の招きの声に従って立ち上がり、イエス様に仕える者に変えられたのです。
彼は、罪の中に死んでいましたが、新しい命を与えられ、新しく生まれ変わったのです。
そして、この救いこそが、マタイにとっての「神の贈り物」だったのです。
マタイは、救いという神様からの大きな驚くべき贈り物をいただきました。
私たちもかつては罪の中に座り込んでいました。
しかし、イエス様によって救われて、新しい人生を歩ませていただくようになったのです。
私たちも、大きな驚くべき「神の贈り物」をいただいたのです。
この「神の贈り物」を忘れることなく、神様に感謝しなくてはなりません。詩篇103:1-5

2.人々をイエス様のもとに招いたマタイ

マタイは「立ち上がって、イエスに従」い、全てを捨ててイエス様の弟子となりました。
取税人の仕事を辞めてしまったら、二度と取税人には戻れませんでした。
また、収税人の仕事を辞めるということは、豊かな富を放棄するということでした。
それでも、マタイは、迷うことなく、全てを捨てて、すぐにイエス様に従ったのです。
なぜなら、マタイは、何よりも素晴らしい「神の贈り物」を手に入れたからです。
その喜びがあまりにも大きかったので、彼は自分の家で宴会を催し、
イエス様と弟子たちを招きました。マルコ2:15。ルカ5:29
そして、マタイの家で行われていた宴会には、「取税人や罪人が大ぜい来て」いました。
マタイは、自分の仕事仲間たちにも、「神の贈り物」を分かち合いたかったのでしょう。
しかし、パリサイ人や一般のユダヤ人たちは、罪人たちと一緒に食事をしませんでした。
罪人と一緒に食事をすることは、罪人と交わり、一つになることであったからです。
しかし、そのような中に、イエス様が「いっしょに食卓についていた」のです。
聖書の中では、しばしば「神の国」が「宴会」に例えられています。
イエス様が罪人たちと共に宴会の食卓に着いている光景は、
神の国において、イエス様を中心にした交わりが持たれることを現すものでした。
パリサイ人たちは、宴会の会場には入らずに、外から覗いていたのでしょう。
彼らは、どうしてそこにイエス様がおられるのか理解出来ず、弟子たちに尋ねました。
それに対して、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」、
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えられました。
「丈夫な者」とは「正しい人」たちで、パリサイ人たちのように、
自分が清く、正しく、良い人間であると思い込んでいる人たちのことです。
「病人」とは「罪人」たちで、自分の罪深さが分かっている人たちです。
「正しい人」が天国に招かれるのではなく、「罪人」が天国に招かれるのです。
自分は「正しい人」だから天の御国へ入れると思い込んでいる人が多いですが、
自分が「罪人」であることを自覚し、悔い改める人が天国に入るのです。ルカ18:9-14
イエス様は、「わたしは正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:32)と語られました。
今日も、イエス様は、罪人を捜し求め、ご自身の食卓に招いておられます。
マタイが罪人たちをイエス様の食卓へと招いたように、
私たちも人々をイエス様の元に導く者となりましょう。

マタイは、仕事で筆を使っていたので、その筆を用いて、
ユダヤ人にイエス様が旧約聖書で預言されていたキリストであることを説明するために、
イエス様の生涯の記録を書き記しました。それがマタイの福音書です。
また、マタイは、福音宣教のために各地を巡り歩き、エチオピアで殉教しました。
マタイは、自分に与えられた「神の贈り物」を忘れることはありませんでした。
そして、その「神の贈り物」を人々に分かち合うために、自分の人生をささげたのです。
私たちも「神の贈り物」を受けた者として、その恵みを喜び、感謝しましょう。
そして、この「神の贈り物」を一人でも多くの人々に分かち合うため、
人々をイエス様の食卓に招き導こうではありませんか。

Filed under: 伊藤正登牧師