23.5.21.

10章では、サウルがどのようにイスラエルの王として任命されたかが記されています。

1.油を注がれたサウル

サムエルはサウルの頭に油を注ぎ、サウルをイスラエルの王として宣言しました(1)。イスラエルでは、王は、祭司や預言者によって、頭に油を注がれて任命されました。ですから、王は、「油を注がれた者」と呼ばれました。「油を注がれた者」は、ヘブル語で「メシヤ」、ギリシヤ語で「キリスト」といいます。この油注ぎの油は、神の霊、聖霊を象徴するものでした。油を王の頭に注ぎかけることによって、王が神の霊、聖霊に満たされ、神の知恵と力によって、イスラエルを導けるようにということを表しました。

イスラエルの王は、他の国の王とは異なっていました。他の国の王たちは、神のように、最高権力者でした。王は、自分の思うままに法律を作り、自分の思うままに国を支配しました。しかし、イスラエルでは、王が最高権力者なのではなく、王の上に更に神がおられ、神が最高権力者なのです。そして、王は、自分の思うままに国を治め、導くのではなく、神の御言葉(律法)に従って、国を治め、導かなければなりませんでした。王が法律なのではなく、神の御言葉(律法)が法律であり、王自身も神の御言葉(律法)に従わなければなりませんでした(申17:14-20)。

王には、神の代理人として国を治め、導くという大きな責任があったのです。このような重要な責任を果たすためには、人間的な知恵、能力だけでは不十分です。神の霊、聖霊による知恵と力が必要でした。ですから、神の霊、聖霊が注がれるようにと、王の頭に油が注がれたのです。

2.聖霊に満たされたサウル

サウルは、突然、イスラエルの王に選ばれ、油注ぎを受けて、驚いたことでしょう。サウルには、これが本当に神からのものであるということを確信する必要がありました。それでサムエルは、サウルが王として選ばれたしるしとして、三つの事を予告しました。

・第一のしるしは、ラケルの墓の傍で二人の人に会い、父の雌ロバが見つかったことを知らせてくれるということ(2)。

・第二のしるしは、タボルの樫木のところで、礼拝に行く途中の三人の人に会い、彼らから捧げ物とする聖なるパンを二つもらうということ(3-4)。

・第三のしるしは、ギブアの町で預言をしている預言者の一団に出会い、サウルの上にも主の霊が激しく下り、サウルも預言するようになり、サウルは新しい人に変えられるということ(6-7)。

そして、その日のうちに、これら全ては実現し(9)、サウルに聖霊が激しく下りました(10)。

サムエルは、「主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます」(6)と言っていましたが、その通り、神はサウルに聖霊を注ぎ、サウルを新しい人に変えました。サウルは普通の人でしたが、預言を語ったのです。神の霊が与えられる時、柔らかく素直な心が与えられ、神の御言葉を守り行う者となります(エゼ11:19-20)。今、サウルは、聖霊の注ぎを受け、自我が砕かれて、神に聞き従う心が与えられました。これは、イスラエルを導く王として大切な要素でした。このように、サウルは、イスラエルの王として、聖霊による本物の油注ぎを受けました。

 

サウルに臨んだような聖霊の注ぎは、民11章にも見られます。神は、モーセに70人の長老を立て、モーセの仕事を分担させるようにと言われました。モーセが70人の長老を任命すると、彼らに神の霊が臨み、預言し始めたのです(民11:25)。しかし、そのような聖霊体験は一時的なもので、「それを重ねることはなかった」のです。旧約時代における聖霊の注ぎは、特別な時に、特別な人にだけ与えられるものでした。

新約時代になると、聖霊の注ぎは、求める全ての人に与えられるようになりました。イエスは、天に昇って行かれる前に、弟子たちに「父の約束」を待ち望むように言われました(使1:4-5)。「父の約束」とは、もう一人の助け主なる聖霊が与えられるという約束です(ヨハ14:16)。そして、ユダヤ人の祭「五旬節の日」(ペンテコステ)に弟子たちが集まっていると、弟子たちに聖霊が臨み、彼らは聖霊に満たされ、異言を語り出したのです(使2:1-4)。聖霊に満たされた弟子たちは、サウルのように、新しい人に変えられました。すなわち、ユダヤ人たちを恐れて隠れていた弟子たちは、人々の前に出て、大胆にイエスのことを語り出したのです。死を恐れず大胆にイエスを証する力が与えられることが、聖霊の注ぎの目的でした(使1:8)。この言葉の通り、聖霊に満たされた初代教会の信者たちは、激しい迫害の中でも、恐れず、大胆にイエスのことを証していったのです。

私たちもサウルや弟子たちのように、福音を宣べ伝えるために選ばれました(Ⅰペテ2:9)。私たちは、出て行って福音を宣べ伝え、弟子を作り、教会を生み出さなくてはなりません。これは、人間の知恵や力で出来ることではありません。聖霊の力が必要です(ゼカ4:6Ⅰコリ2:4)。サウルは、イスラエルの王としの役割と責任を果たすために、聖霊による油注ぎによって、新しい人に変えられました。私たちも、福音宣教という役割と責任を果たすために、聖霊による油注ぎをいただいて、新しい人に変えていただこうではありませんか。今日、聖霊を求める者は、誰でも聖霊の注ぎをいただくことが出来ます。イエスは、私たちに聖霊を「求めなさい」と語っておられます(ルカ11:9-13)。私たちも、聖霊の豊かな油注ぎを待ち望みましょう。

Filed under: I サムエル記伊藤正登牧師