聖霊の注ぎ
使徒2:1-4

21.6.5.
「五旬節」は、ギリシヤ語で「ペンテコステ」と呼ばれ、「50日目」という意味です。「過越しの祭り」(イースター)から数えて「50日目」ということです(レビ23:15~)。7週間経過するところから「七週の祭り」(シャブオット)とも呼ばれます(出34:22、申16:10)。「五旬節」は、キリスト教会にとって、聖霊が注がれ、教会が誕生した記念すべき日です。
1.父の約束を待ちなさい ; 聖霊の満たしを求める
イエスは「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使1:4)と言われました。この「父の約束」とは、聖霊が与えられるという約束でした(ヨハ14:16)。「もうひとりの助け主」とは、「真理の御霊」(17)すなわち「聖霊」です。「もうひとりの」とはギリシヤ語で「アロス」で、「性質の同じもうひとりの方」という意味になります。「真理の御霊」である聖霊は、「イエスと同じ性質を持ったもうひとりの方」なのです。聖霊は、イエスと同じ性質、同じ力を持ったお方であるということです。
また、「助け主」は、ギリシヤ語で「パラクレートス」といいます。「パラクレートス」とは「パラ」(傍らに)と「クレートス」(呼ばれた者)の合成語です。「傍らに呼ばれた者」とは、元々は「弁護士」を意味していました。新改訳聖書欄外には「援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人」とあります。それが「そばに寄り添う者」、「味方」、「助言者」、「慰める者」を指すようになりました。「もうひとりの助け主」「真理の御霊」である聖霊は、イエスと同じ性質、同じ力を持ち、常にそばに寄り添い、味方となり、助言を与え、慰めて下さいます。聖霊が共におられるということは、イエスが私たちと共におられるということなのです。
5節でイエスは「あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言われました。「バプテスマ」とは「沈める」、「浸す」という意味のギリシヤ語です。「聖霊のバプテスマ」とは、聖霊の中に「沈められること」、「浸されること」、すなわち「聖霊に満たされること」です。ですから、イエスが弟子たちに「父の約束をまちなさい」と言われたのは、「聖霊のバプテスマを受け」、聖霊に満たされるようにということだったのです。
2.主の証人となる力を受ける : 聖霊の満たしの目的
「聖霊のバプテスマを受け」、聖霊に満たされる目的は「力」を受けるためでした(使1:8)。「力」はギリシヤ語で「デュナミス」といい、「変化を起こす力」を意味します。ダイナマイトの語源ともなった言葉で、私たちの能力を超えた大きな力です。聖霊は、私たちの能力を超えた力、変化を起こす大きな力を与えて下さるのです。その「力を受け」る時、イエスの「証人となります」。
「証人」という言葉は、ギリシヤ語では「殉教者」(マルテュス)となっています。「殉教者」とは、信仰のために迫害されて殺された人のことです。ですから、「証人」とは、イエスを信じる信仰のために迫害されて殺される人、自分の命を犠牲にしてイエスを証する人、福音のために命をささげる人のことです。しかしそれは、人間的な力で出来ることではありません。
ペテロは、イエスが捕らえられると、イエスを見捨てて逃げてしまいました。また、カヤバの官邸で、ペテロは3度もイエスを知らないと否定してしまったのです。しかし、ペンテコステの日に聖霊に満たされると、ペテロは変えられ、人々の前に出て、恐れることなく、大胆にイエスのことを語ったのです。そしてその後も、ペテロは命がけでイエスを宣べ伝えました。
イエスは「全世界」の「あらゆる国の人々」に「福音を宣べ伝えなさい」と命じました(マル16:15、マタ28:19)。それは、人間的な力では出来ません。聖霊の「力」が必要です。ですから、イエスは「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われたのです。それは、聖霊に満たされ、主の「証人」となるための「力」を受けるためだったのです。
3.他国のことば(異言)で話し出した : 聖霊の満たしのしるし
弟子たちはイエスの言葉に従って、「みな心を合わせ、祈りに専念して」(1:14)いました。そして10日後の「五旬節の日になって」(使2:1)、弟子たちが一緒に集まって祈っていると、「聖霊に満たされ」、「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のです(4)。「他国のことば」とは、様々な「国の国語」(8)、「いろいろな国のことば」(11)でした。それは、弟子たちの知らない、習ったこともない、外国の言葉でした。ですから「他国のことば」は、弟子たちにとっては、「異言」であったと言えます。「異言」とは、聖霊に導かれて語る、自分も知らない言語です。
使10:44-46では、異邦人のコルネリオと彼の家族や親族、友人が聖霊を受けました。ペテロは、彼らが「異言」で話しているのを見て、「私たちと同じように、聖霊を受けた」(47)と確信しました。すなわち、それは五旬節の日の聖霊の満たしと同じ体験であったということです。その後、ペテロはこの出来事について、エルサレム教会で、次のように語りました。「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。」(使11:15)「あの最初のとき」とは、2章に記されている、「五旬節の日」の聖霊降臨の時です。
使19:1-7では、エペソの既にクリスチャンたちに聖霊が臨みました。「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」(使19:6)のです。このように、「聖霊のバプテスマ」には、「異言」が伴っていました。「聖霊のバプテスマ」を受け「聖霊に満たされ」た人は「異言」で語れるようになるのです。
その日、ペテロのメッセージを通して、「三千人ほどが」救われ、「バプテスマを受け」、「弟子に加えられ」(2:41)、教会が誕生しました(2:42 )。聖霊に満たされた弟子たちは、「力を受け」、主の力強い「証人」となったのです。イエスは、私たちにも聖霊の満たしを求めるように招いておられます(ルカ11:9,13)。飢え渇きをもって聖霊の満たしを求めるなら、主は惜しみなく聖霊を注いで下さいます。心を開き、聖霊の満たしを求めて、祈りましょう。そして「聖霊に満たされ」、「力を受け」、イエスの「証人」となりましょう。
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