17.09.24

自分の十字架を負って主に従う

マルコ8:34-37

かつて日本には大きな迫害の時代がありました。イエス様を信じるだけで苦しめられました。今の日本は迫害はないとしても、福音を広める働きには苦労が伴います。なぜ信仰のための苦しみがあるのでしょう。迫害など、苦しみに耐える信仰ということはどのようなものかを学びましょう。

1.神のしもべは訓練を受ける

神様の御心を行い、またイエス様についてゆくには苦しみを通ります。たとえば、キリスト教徒であるということで迫害されたり、福音を広めるために犠牲を払ったりします。イエス様も十字架の苦しみを通られたのですから、イエス様に従う者たちも苦しみを通るのです。このように、困難があることは初めからイエス様が言われていたことです(ヨハネ16:33b)。

この苦しみは訓練であり、神様の子供たちは訓練を受けるのです。訓練を通らないで楽な道を行くのは信仰の歩みとは言えません(へブル12:5-8)。パウロも自分が神のしもべであることを患難を通ったことで証明しました(Ⅱコリント6:4-10、11:23-28)。

2.自分が死ぬことで、キリストが生きる

その訓練とは苦しみを通して自分に死に、神様のために生きることを学ぶことです。たとえば、かっこよさを第一に求める性質、財産・豊かさを第一に求める性質、人からの栄誉を第一に求める性質など、古い自分の性質、自我は十字架でキリストと共に死んだのです。もう呼び覚ましてはいけません。自分に死に、信仰のための苦しみを通ってゆくことが十字架を負うことです。自分に死ねば、キリストが自分の中に生きるのです(ガラテヤ2:20)。そして平安な義の実を結び(へブル12:11)、さらに死を恐れない信仰に至るのです(Ⅰヨハネ4:18)。

長崎で処刑された二十六聖人の一人、ルドビコ茨木という12歳の少年は、役人が「キリシタンの教えを棄てればお前の命は助けてやる」という申し出に対し、「つかの間の命と永遠の命を取り替えることはできない」と毅然とした態度で断り、処刑を恐れなかったそうです。

私たちは、物質的豊かさとか、自己中心の楽しい生活とかを目標に生きてはなりません。もっと価値のある神様に従う道を選びましょう。自我に死に、キリストの品性を持ち、真の意味でキリストのような人「クリスチャン」となり、キリストを証しし、神様の栄光を現わす者となりましょう。

3.信仰の苦しみを通ることで後の世代への証しとなる

日本でもかつて大きな迫害時代がありました。1587年の伴天連追放令から1873年キリスト教解禁までの286年間、日本はキリスト教を禁止していました。とくに1597年の二十六聖人殉教から1870年(明治3年)までの273年間は、非常に残酷な拷問・処刑がたびたび行われていました。

しかしキリシタンたちは、この迫害時代を耐え、多数の犠牲者を出しながらも信仰を守り通したのです。そして今の日本の信仰の自由は彼らの犠牲の上にあると言えます。大きな声で主を賛美したいと願いつつもかなえられず拷問の死をとげた者たちの願いの実現を今の世代の人々が受け取っているのです。

その信仰者たちは、イエス様に従うことは、自分の命以上に価値あることを証明しています。彼らの信仰によって励まされましょう(へブル11:35-12:2)。そして私たちが後の世代の人たちに証しする者になりましょう。

私たちはキリストのため、また福音のために苦しむことを恐れず、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様に従ってゆきましょう。