19.5.5.

イエスが復活された後、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロや弟子たちに会われました。彼らは、一晩中漁をしましたが、何も獲れませんでした。夜が明けようとしていた時、イエスが岸辺に立っておられました。イエスは、弟子たちに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」(6) 弟子たちは、イエスの言葉通りに、「舟の右側」に網を下ろしてみました。「すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」(6)のです。その網は「百五十三匹の大きな魚でいっぱい」(11)でした。この出来事を通して、何を教えられるでしょうか。

1.主なしでは何も得られない

弟子たちは、一晩中漁をして働いたのに、何も獲れませんでした。そのため、心も体も疲れ果てていたことでしょう。何も獲れなかったことで失望し、一晩中の労働によって疲れていたことでしょう。どんなに努力しても、主が共におられなければ、何も得ることも、成し遂げることも出来ません。ただ失望し、疲れるだけです。

詩篇127:1-2。主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

また、イエスも次のように言われました。

ヨハネ15:4。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

私たちは、主から離れては、主なしでは、何も得られないのです。

一晩中漁をしても何も獲れなかった弟子たちに、イエスは、「子どもたちよ。食べるものがありませんね」(5)と呼びかけました。主は、私たちが何も得られていないことを見ておられ、知っておられるのです。そして、主は、私たちにも呼び掛けておられます。「あなたは色々と頑張りましたが、何も得られなかったですね。」弟子たちは、イエスの問いかけに「はい。ありません」(5)と答えました。私たちも、自分の弱さ、足りなさを素直に認めなければなりません。そして、この後、ペテロが「上着をまとって、湖に飛び込んだ」(7)ように、私たちもただ主を求め、主の前に飛び込んでいく者となろうではありませんか。

2.主の御言葉に従う

イエスは、弟子たちに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」(6) 弟子たちが乗っていた舟は「小舟」(8)であり、右側に網を下ろしても、左側に網を下ろしても大きな違いはありませんでした。人間的に考えるなら、あまり意味のないことで、無駄なことのように思えたでしょう。しかし、イエスに言われた通り、「彼らは網をおろした」(6)のです。「すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることが」(6)出来ないほどでした。

この大漁の奇跡での重要なことは、弟子たちがイエスの言葉に従ったということです。私たちは、文化、伝統、論理、感情に従って意思決定したり、行動します。文化とは「皆がやっているから」、伝統とは「私たちはいつもそうして来たから」、論理とは「筋が通っているから」、感情とは「好き、嫌いだから」というものです。これらの要素を尊重し、これらのものに従って行動することも大切です。しかし、これらのものだけに従っていると、問題は起こらないかもしれませんが、何の変化も、何の発展も、何の成長も見られません。

私たちの意思決定や行動を導く、もう一つの大切な要素が主の言葉です。それが、「舟の右側に網をおろす」ということなのです。文化、伝統、論理、感情が何と言おうとも、最終的には主の言葉に従うのです。意志決定の際には、まず「御言葉は何と言っているだろうか」と尋ねるのです。そして、人間的に考えて無駄な努力、不可能なことと思われることであっても、主の言葉に従う時に奇跡が起こるのです。私たちは、自分の納得出来る範囲内だけで従うということはないでしょうか。

 

主から離れては、私たちも何も成し得ません。いつも主を求め、主との交わりの中にとどまり、主と共に歩みましょう。また、単に文化、伝統、論理、感情にしたがって意思決定し行動するのではなく、主が語られたことに従うことが大切です。どんなに理解出来ないことでも、無意味なように思えても、好ましくなくても、「主がそう言っているから従う」という信仰が必要です。今日も、主はあなたにみことばを語りかけておられます。どのようなことであっても受け入れ、主が語られている言葉に従いましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師