16.11.20

裁いてはいけません

マタイ7:1-5

私たちが神の国を建て上げるのに必要なことは一致です。しかし、私たちはそれぞれの違いが受け入れられず、互いに裁きやすいのです。このような私たちに、イエス様はどのように教えておられるのでしょうか。

1.裁くのはやめよう

「裁く」(マタイ7:1)とは原語で、KPINΩ(クリノー)であり、批判し、区別し、責め、排除することです。類似語で、「戒める」(コロサイ3:16)は原語で、NOYΘETEΩ(ノウセテオー)であり、気づかせ、勧め、警告し、懲らしめることです。つまり、みことばによって戒めることは、正しく成長するために必要なことです。

なぜ人を裁いてはいけないのでしょうか。
私たちは人を裁きながら、多かれ少なかれ、あるいは種類は違っても、自分も同じようなことをしているのです。したがって人を裁くことで自分を罪に定めているのです(ローマ2:1)。

人を裁くなら自分も裁かれるからです(マタイ7:1)。しかも神様から裁かれるのです(ローマ2:2-3)。

人を裁くのは神様のなさることであり、人を裁くとき、神様のしもべを勝手に裁いているのです(ローマ14:4)。ただし、みことばに従わない内部の者は裁かなければなりません(Ⅰコリント5:12)。また自分で自分を裁くことも時には必要です(Ⅰコリント11:31)。

2.信仰によって生きよう

人は自分の考え・基準(ノルマ)をもっていて、その基準で人を裁きます。しかし、自分の基準(ノルマ)は、聖いものではなく、人に押し付けられるようなものではありません。

私たちは神様の御心を学ぶ必要があります。神様の御心を知るとき、目の中から梁が取り除かれ、正しく人を戒め、導くことができるようになるのです(マタイ7:3-5)。

旧約時代では律法を守ることで神様の基準(ノルマ)に達していました。これが律法による義です。しかし、新約の今は基準(ノルマ)ではなく、イエス様ご自身に対する信仰によって生きることが求められています(ハバクク2:4、ローマ1:17、3:22)。つまり、基準(ノルマ)ではなく、最高にして完全な目標が与えられたのです。

すべてのことを信仰によって行うことが大切です。信仰から出ていないことは罪です(ローマ14:23)。しかも愛によって働く信仰が大事なのです(ガラテヤ5:6、Ⅰコリント13:1-3)。

イエス様ご自身を信じる信仰によって歩むなら、真に大切なものを知っているので、正しく人を導くことができるのです。

3.赦し、与え、祝福しよう

マイナス面では、私たちが人を裁くとき、自分もその基準で裁かれますが(マタイ7:2)、プラス面では、人を赦すなら、自分も赦され(マタイ6:14)、与えるなら自分も与えられます(ルカ6:38)。

他にも、祝福するなら祝福され、呪うなら呪われます(創世記12:2-3)。神様を尊ぶ者は尊ばれ、神様をさげすむなら軽んじられます(Ⅰサムエル2:30)。自分の量りで量られるのです(マタイ7:2)。

ですから、私たちはプラス面に歩もうではありませんか。互いに赦し、与え、祝福しましょう。お互いに裁き合って共倒れになるより、赦し、与え、祝福し合って、共に建て上げられてゆきましょう。

イエス様が私たちを愛し、赦して下さったように、互いに赦し合いましょう(コロサイ3:12-17)。

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