19.3.3.

詩篇23篇は、多くのクリスチャン達に愛され、親しまれている美しい詩篇です。詩篇23篇から、主が私たちにとってどのようなお方なのか学びましょう。

1.主は良い羊飼い

聖書では、神は「羊飼い」に、私たち人間は「羊」に例えられています(詩篇100:3)。人間と「羊」には、いくつかの共通点も見られます。「羊」は、方向音痴なので、自分で草のある所や水のある所に行くことは出来ません。「羊」は、目の前の草を食べることだけに集中してしまって、自分でも気がつかないうちに群から離れてしまうことがあります。「羊」は、転んだり、倒れてしまうと、自分の力ではなかなか起き上がれません。「羊」には、猛獣と戦ったり、身を守るための鋭い牙も角も爪も力もありません。「羊」は、動きも鈍く、逃げ足も遅いので、すぐに猛獣に襲われてしまいます。弱くて愚かで迷い易い「羊」は、「羊飼い」なしでは生きてはいけません。

私たち人間も、「羊」のように、弱く、愚かで、迷い易い者です。聖書は、人間が「羊飼い」なる主から離れ、「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(イザヤ53:6)と言っています。しかし、「羊飼い」なる主は、「羊」のように彷徨っている私たち人間を探し求めておられます(エゼキエル34:11,16)。そして、「羊飼い」なる主は、人の姿をとって、この世界に来て下さいました。それが、神の御子、主イエス・キリストです。イエスはご自身について、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)と言われました。また、ルカ15:4-7で、イエスは、「九十九匹」の「羊」を置いてまでも、「いなくなった一匹」の「羊」を捜し歩く「羊飼い」の例え話をされました。そのように、イエスは、罪の中に彷徨い、悪魔という獣の餌食となって、滅びようとしている人間を捜し出し救うために来られたのです。イエスは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10:10)と言われました。そして、私たちに新しい命を与え、私たちを豊かな人生に導くために、イエスは、十字架にかかり、ご自分の命をささげてくださいました。「良い牧者」は、自分の命を犠牲にしてまで、「羊」を守ったり、救い出します。イエスは、「良い牧者」として、私たちを救うために、いのちを捨てて下さったのです(ヨハネ10:11Ⅰペテロ2:24-25)。主イエスは、私たちの「良い牧者」です。

2.主は豊かな人生に導かれる

主が私たちの「羊飼い」であるなら、私たちは「乏しいことがありません」。それは、経済的、物質的に満たされていて「欠乏がない」ということではありません。「満足していてそれ以上何も願う必要がない」という満ち足りた状態のことなのです。これは、「羊飼い」のもとにいる「羊」が安心し切って、満足している様子です。なぜなら、主が「緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われ」るからです。「羊」が「緑の牧場に伏させ」られるとは、安心して草を食べ、身を伏している状態です。また、「いこいの水のほとり」とは、「静かな水」という意味です。これも、「羊」が安心して喉の渇きを癒すことの出来る場所、心静まる場所のことです。「羊」が全く安心しきって、満ち足りている状態が「私は、乏しいことがありません」という状態なのです。そこには、「羊飼い」なる主に対する全き信頼があります。「羊」たちは、「羊飼い」たちが自分たちの必要を備えてくれることを知っています。「羊」たちは、「羊飼い」たちが自分たちを守ってくれていることを知っています。ダビデは、「羊飼い」なる主の素晴らしさを知っているゆえに、心は平安で満ち足りて、「乏しいことがありません」、「他に何も要りません」と告白しました。

私たちが「羊飼い」である主の素晴らしさを知り、主と共にある時、どんな状況の中でも喜びと平安で満たされ、満ち足りることが出来るのです。パウロも「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)告白しています。パウロがこのように「どんな境遇にあっても満ち足りること」が出来たのは、彼がダビデのように「羊飼い」なる主の素晴らしさを知っていたからです。この世界は「物質主義」です。「多く持つ方が幸せ」、「豊かなことが幸い」と信じられています。そして、人々は「もっと欲しい、もっと欲しい」と求め続けています。しかし、どんなに多くを得ても、豊かになっても、決して満足出来ないのです。それどころか、もっと欲しくなり、もっと飢え渇くのです。いつまでたっても、決して満ち足りることはないのです。単に物質的、経済的に満たされた人生が「豊かな人生」なのではなく、「どんな境遇にあっても満ち足りる」ことが出来る人生こそが、「豊かな人生」なのです。

なぜ不平や不満があるのでしょう。なぜ思い煩いや恐れがあるのでしょう。それは、「羊飼い」なる主から離れ、心がこの世の物に捕らわれてしまっているからです。主は、私たちの良い「羊飼い」です。あなたの名を呼んでいる「羊飼い」の「声」を聞いて下さい。「羊飼い」の「声を聞き分け」(ヨハネ10:3)、「ついて行」(ヨハネ10:4)くのです。「羊飼い」なる主は、あなたを「緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」。「羊飼い」である主のもとにいる時、安らぎ、満ち足りることが出来るのです。その時、あなたは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と告白するでしょう。イエスは、私たちを真に「豊かな人生」へと導いて下さる良い「羊飼い」です。イエスは言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

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