創世記25:29-34

230108SCC新年
2023年が始まりました。今年、私たちは何を求めていくべきでしょうか。イサクの息子、エサウとヤコブでは求めるものは全く違いました。二人の違いを通して、私たちが求めるべきもの、大切にすべきものは何かを学びましょう。
1.霊的祝福を求めよう
エサウが疲れ果てて野から帰ってきたとき、弟のヤコブがおいしそうな豆料理を作っていました。エサウがそれを求めたとき、ヤコブは長子の権利と引き替えに与えると言いました。
するとエサウは、「長子の権利が今の私に何になろう」と言って軽んじ、ヤコブに与え、代わりにそのおいしい料理を食べて満足して立ち去りました。
ヤコブは心から神からの祝福がほしくて、兄に長子の権利を売るように迫りました。そのやり方は、人の弱みにつけ込むずるいやり方でしたが、ともかく神の霊的祝福を求めたのです。
長子の権利とは、父から受け継ぐ2倍の相続財産であるだけでなく、神からの祝福の約束です。長子の権利は、先祖アブラハムに与えられた神からの約束を受け継ぐということです。その神の約束とは、神の大いなる国民となって世界を祝福することです(創世記12:2-3、15:1)。
私たちもイエスキリストを信じるとき、霊的にアブラハムの子孫となり、その霊的祝福が与えられます(ガラテヤ3:29)。
・神はキリストを信じる者たちを滅びから救い、永遠のいのちを与えてくださいます(ヨハネ3:16)。
・さらに、キリストとともに、すべてのものを与えてくださいます(ローマ8:32)。
私たちもヤコブのように、霊的祝福を求めていきましょう(コロサイ3:2)。
2.肉の欲に気を付けよう
ヤコブの豆料理はとてもおいしそうで、エサウは欲しくてたまらなくなってしまい、「赤いのを食べさせてくれ」と頼みました。この時からエサウは「赤い」を意味するアドムから、エドムと呼ばれるようになりました。エサウは肉欲にかられ、もっとも大切な神の祝福を売ってしまいました。聖書ではエサウのような肉的な人を俗悪な者と言っています(へブル12:16-17)。
肉の行いとは、人間の欲望から来る行いです(ガラテヤ5:19-21)。敵意、争い、怒りやねたみなどの人間関係のもつれのため、あるいはこの世の楽しみのためなど、様々な理由で教会から離れ、神から離れ、信仰を失ってしまう人たちがいます(へブル10:25)。クリスチャンであっても、このような肉欲に心が奪われ、信仰を捨ててしまったらどうなってしまうのでしょうか。聖書では厳しい裁きが待っていると教えています(ローマ11:22-23、へブル6:4-6、10:26-29)。人間的な楽しみを得ても、霊的な命を失ってしまったらすべてを失うことになります(ルカ9:25)。神を求めようとしないなら、永遠のいのちはありません(Ⅰヨハネ2:15-17)。この世の財産も、やがて価値がなくなったり、盗まれたり、使い切って無くなったりします。しかし、神の祝福は永遠に続く価値あるものです(マタイ6:19-20)。
エサウがどんなにお腹がすいていて、食べたかったとしても、そのために一番大事なものを失っては何にもなりません。
まとめ
私たちも信仰によってアブラハムの子孫とされ、アブラハムの祝福を受け継ぎました(ガラテヤ3:7、29)。すなわち、キリストを信じることによって永遠のいのちをいただいています(ヨハネ3:16)。この神から与えられた救いの約束は、イエスが帰ってこられたとき完成するのです。それはもうすぐかもしれません。その日まで、キリストとの個人的関係をしっかりと築くとともに、この地上でのキリストの現れである教会にも、しっかりと結び合わされていきましょう(エペソ4:16)。
私たちは、エサウのように肉的なものを求めないで、ヤコブのように神の祝福を求めましょう。ともに教会に集い、ともに礼拝し、祈り合い、励まし合いましょう(へブル10:25)。キリストの体である教会で、ともに主を求め、神の霊的祝福を求めましょう。神を第一に求めるなら、必要なものは全て与えられるのです(マタイ6:33)。
Filed under: 柴田晃伝道師