19.5.19.

「バベルの塔」の話は、私たちに何を教えているのでしょうか。

1.全地に散らされた人類

ノアの時代の大洪水によって、ノアの家族8人以外の人類は、滅んでしまいました。それは、人類が神の前に非常に罪深かったからです。その後再び、人類は増え、「シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住」しました。「シヌアルの地」とは「メソポタミア地方」のことであり、後のバビロニアであり、現在のイラク南部です。その場所は、「平地」であり、住み心地の良い場所であったのでしょう。

当時、ノアの子孫に当たる人々は同じ「一つのことば」を話していました。お互いに言葉が通じたていたということは、意志の疎通が可能で、精神的にも一つであることが出来たということです。そのため、人々は、互いに協力し合い、文明も発展しました。彼らは、「石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を」用いるようになりました。窒で焼いた「れんが」は、日干し「れんが」よりも強度が増しました。また、「瀝青」とは「アスファルト」のことで、「粘土」よりも強力なものでした。これらの高度な技術の発達によって、それまでよりも高い建物の建設が可能になりました。やがて、彼らは、自分たちの「名をあげ」るために、力を合わせて、自分たちの「町を建て、頂が天に届く塔を建て」始めたのです。

しかし、神はそれを良しとせず、それ以上町を建て、塔を築くことがないようにするため、「彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないように」されたのです。人々は、互いに言葉が通じなくなり、もはや意思の疎通が出来なくなりました。そして、「町と塔」を建てることも出来なくなり、工事を止めてしまいました。さらに、人々は、「地の全面」に散らされてしまいました。そのため、その町は、「バベル」(「混乱」)と呼ばれるようになりました。

2.バベルの人々の問題点

町を建て、塔を築くこと自体には問題はありませんでしたが、その目的や動機に問題があったのです。彼らは、どのような目的や動機を持っていたのでしょう。

① 自分たちの名を上げようとした

人々が「頂が天に届く塔」を築き上げようとした目的や動機は、自分のたちの「名」を上げるためでした。「天」とは、神のおられる所であり、彼らは神と同じ位置に届こうとし、自分たちも神のようになろうとしたのです。それは、神に対する高慢であり、反逆でした。バベルの塔は、自らが神のようになろうとしている人間の姿を表しています。

私たちの心にも、このバベルの塔はないでしょうか。人間の心の中には、向上心や上昇志向があり、それは良いことであり、必要なことです。しかし、神を忘れ、神を無視し、自己実現することだけを求めるなら、バベルの人々が自分たちの「名」を上げ、神のようになろうとしたことと同じです。

サタンも、神に仕える御使いでしたが、彼は「自分の美しさに高ぶり」(エゼ28:17)、「私は天に上ろう」、「いと高き方のようになろう」(イザ14:13-14)と高ぶりました。そのため、彼は天から落とされてしまったのです。また、エデンの園で、エバも悪魔から「神のように」(創3:5)なり、賢くなれると誘惑され、神の言葉に背き、罪を犯してしまいました。

私たちが高く上げなければならなのは、自分たちの「名」ではなく、イエス・キリストの御名です。Cf. ヨハ12:32。自分たちの「名」ではなく、主の御名があがめられることを求めなければならないのです。また、いつの間にか、私たちの信仰が、自分の夢や希望を実現するための、自己実現の信仰、個人主義的な信仰になってしまってはいないでしょうか。

私たちが目指していかなければならなのは、自己実現ではなく、神の御心の実現です。

② 自分たちが散らされないようにした

神の御心は、人類が全地に増え広がり、地を従えるということです(創1:28、9:7)。神は、ご自身の民が、この世界に増え広がって、神の支配と秩序をもって世界を治め、神の国を実現することを望んでおられたのです。しかし、バベルの人々は、「全地に散らされるといけないから」と、「町を建て」ました。「全地に散らされ」ないようにするということは、神の御心に反することでした。

私たちも、教会で親しくなり、互いに交わりを持つことは、素晴らしいことですが、自分たちだけの小さな世界を築き上げ、その中に留まってしまうことはないでしょうか。神は、神の民が一箇所に留まり、自分たちの交わりだけで満足することを願っておられません。もし、神の民が出て行こうとしないなら、強制的に全地に散るようにされます。

イエスは、弟子たちに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタ28:19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝え」(マル16:15)と命じました。初代教会は、聖霊によって誕生し、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで」(使1:8)、主の証人とならなければなりませんでした。しかし、エルサレムに留まり、ユダヤ人だけの教会となりました。そこで、神は、教会に対する迫害が起こることを許されました。それによって、信者たちは散らされ、「みことばを宣べながら、巡り歩いた」(使8:4)のです。そして「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝え」(使8:5)ました。また、アンテオケまで「散らされた人々」は、福音をユダヤ人だけではなく、「ギリシヤ人にも語りかけ」、ユダヤ人と異邦人の教会が誕生しました(使11:19-21)。さらに、アンテオケ教会からパウロたちが派遣させ、世界宣教がなされていきました。主の御心は、私たちが全世界に出て行き、福音を宣べ伝え、神の国を実現することなのです。

 

私たちの内にあるバベルの塔とバベルの塔を崩して、全世界に出て行き、福音を宣べ伝え、人々を暗闇の世界から光の世界へ、サタンの支配から神の支配へと導きましょう(使26:18)。主は、語っておられます。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」(創1:28)

Filed under: 伊藤正登牧師