マルコ14:1-9

26.3.1.

受難週に起こった出来事の一つである「マリアによる香油注ぎ」から、「奉仕」について一緒に学ぶ。並行記事…マタ26:1-16、ルカ22:1-6、ヨハ12:1-8。

1.無駄に見えても価値がある

過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。(1) これはイエスが十字架にかかる2日前。さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。(3) この「ある女の人」とは、ヨハ12:3によると、ラザロとマルタの姉妹「マリア」だった。ヨハネによると、マリアはその香油を「イエスの足に塗り」ともある。

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(4-5) 労働者の1日分の報酬が1デナリ。「三百デナリ」は労働者三百日分の報酬に相当。その「非常に高価なナルド油」を一瞬の内に注ぎ出してしまったということは、マリアのした行為は、それを見ていた人たちには全く「無駄」なことに見えた。その「香油」を高く売って、そのお金で「貧しい人たちに施し」した方がずっと利用価値があるというのが彼らの意見だった。

これを言ったのは、「何人かの者」となっているが、マタ26:8では「弟子たち」であり、ヨハ12:4では「イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダ」だった。ユダは、頭で計算し、合理的な使い方を提案し、他の弟子たちや人々を扇動したのだろう。しかしヨハ12:6には、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった」とある。ユダは、「貧しい人々」のことを話しに持ち出し、周りの人たちの共感を得たが、本当に「貧しい人々」のことを考えていたのではなく、自分のことしか考えていなかった。

奉仕は、人の目には、時間、お金、労力の「無駄」に見えるかもしれない。その時間、お金、労力を他のために使った方が価値があるように思えるかもしれない。その場にいた人たちはマリアを責めたが、イエスはマリアを責めず、賞賛した。「彼女を、そのままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(6) 主のための奉仕を誰も見ていなくても、主は見ておられる。誰も評価してくれなくても、主は評価して下さる。誰も報いてくれなくても、主は報いて下さる。主のために行う奉仕は、決して無駄ではなく、貴く価値のあること。

2.機会をとらえて奉仕する

イエスは、マリアを責めていた人々に言われた。「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。」(7) イエスは、決して「貧しい人々」を退けているのではない。ただ、「貧しい人々」に施しをしようと思えば、これからいつでも出来るが、イエスが地上を去る時が近づいていた。マリアがイエスへの愛を表すことができるのは、この時しかなかった。もし、マリアがこの機会を逃してしまったなら、永遠にイエスに「ナルド油」を注ぐことは出来なかっただろう。しかし、マリアは、イエスに香油を注ぐ機会を逃さなかった。

イエスは、マリアがしてくれたことについて、「埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれました」(8)とも語られた。この2日後、イエスは、十字架にかかって死なれる。

マリアがイエスの死をどの程度理解していたかは分からない。結果的に、マリアのささげ物は、イエスの埋葬の用意となった。マリアは、機会をとらえて、イエスに対する愛を余す所なく示した。

人生には、その時でなければ出来ないことがある。Cf. 伝道3:1。その時にしなかったために、永遠にその機会を失ってしまうことがある。先延ばしして遅らせてしまい、とうとう本当に出来なくなってしまうこともある。だから、聖書は次のように言っている。「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペ4:27、5:16) 色々な出来ない言い訳を言って、奉仕することを遅らせたり、先延ばしして、奉仕する機会を失ってしまってはいないか。Cf.箴22:13。主に奉仕する機会が訪れた時には、その機会を逃すことなく、奉仕しよう。

機会は偶然にやって来るのではなく、日頃から心がけている人がつかむもの。マリアは、機会をとらえて、イエスに最大の愛を表すことが出来た。常に主を愛し、主にささげ、主に仕えようとしている人は、その機会をとらえる。日頃から、主に仕える機会を常にうかがっているなら、その機会が訪れた時にその機会をとらえることが出来る。

 

イエスは「まことに、あなたがたに言います。世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」(9)と言われた。マリアがイエスにしたことは、忘れられることなく、世界中で覚えられる。私たちの奉仕も、主に覚えられる。人間的には、主へのささげものや奉仕は、無駄なことをしているように見えるが、主にあっては、決して無駄になることはない。Cf.伝11:1。主は必ず報いて下さる。ヨハ12:26。ロマ2:6。Ⅰコリ15:58。主のために奉仕する機会が与えられたら、色々な言い訳を言って逃げたりしないで、喜んで奉仕する者となろう。マリアのように、自分に出来る最高のものを精一杯のものをもって主に仕えよう。

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