収穫の働き人として出て行こう

マタイ9:35-38

24.5.5.

人々に対する主の心と私たちに対する主の求めとは何か。

1.弱り果て倒れている人々をかわいそうに思う

イエスは「群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(36)。「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」とは、人生の様々な問題の中で、自分でどうすることも出来ず、人生に疲れ果て、弱り果ててしまっている状態。「かわいそうに思われた」とは、単に憐れまれたという以上に、「心に深い痛みを覚えた」ということ。私たちは、どれだけイエスと同じように、人々に対して深い痛みを感じているだろうか。彼らは、人生で成功し、満足しているように見えるかもしれない。表面的には、何の問題もないように見えるかもしれないが、実際は、心が傷ついていたり、悩んでいたり、疲れてしまっている。そして、最後にはみな永遠の滅び(地獄)へと向かっている。実際に、毎年、多くの人々が自らの命を絶っている。私たちは、人々が「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」ことを忘れてしまっていないだろうか。自分の必要、自分の問題、自分の生活、自分の幸せだけが優先事項となり、イエスを知らずに死んでいく人々に対して無関心になってはいないだろうかか。イエスと同じように、弱り果て倒れている人々をかわいそうに思うことが必要である。

2.救われる人々が大勢いるというビジョンを持つ

これまで様々な伝道が試みられて来たが、救われる人々の数は少ない。しかし、イエスは、「収穫は多い」(37)と言われた。すなわち、救われるべき人々が大勢いると言っておられる。また、イエスは「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハ4:35)と言われた。「畑」が「色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、救われようとしている人々がいるということ。パウロは、コリントで福音を伝えていた時、ユダヤ人たちからの妨害を受けた。その時、主は幻の中で、パウロに語り掛けた。「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(使18:9-10) 主は、迫害を恐れずに、福音を語り続けるようにと言われた。なぜなら、主が救いに選んでいる人々が大勢いるから。この日本にも、福音を待っている人々、救われるべき人々が大勢いる。自分の様々な必要や問題、この世のことに心を捕らわれてしまうのでなく、救われる人々が大勢いるというビジョンを持つことが必要。

3.自分を収穫の働き手としてささげる

イエスは、「収穫は多い」と言われたが、「働き手が少ない」とも言われた(37)。少ないのは「収穫」ではなく「働き手」。本当に足りないのは「働き手」。それゆえ、イエスは「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(38)と言われた。「人々が救われるように」祈りなさいと言われたのではなく、「働き手」が与えられるように祈りなさいと言われた。「働き手」が大勢いれば、救われる人々は大勢起こされる。必要なのは、人々に福音を伝え、、人々を救いに導く「働き手」(ロマ10:14)。だから、「働き手」が送られるように祈らなくてはならない。イエスは、私たちが応答して「働き手」として立ち上がることを待っておられる。クリスチャンはみな、「主に従います」、「私を用いて下さい」と言っている。しかし、実際には、色々な言い訳を言って、立ち上がろうとしない。「忙しいです」、「賜物がありません」、「まだ時ではありません。状況が整ってから」と。主は、人々に福音を宣べ伝え、人々を救いに導く「収穫」の「働き手」者を捜している。イザ6:8。私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 イザヤのように、自分自身を「収穫」の「働き手」としてささげることが必要。

まとめ&結論

イエスが「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」人々を見て、「かわいそうに思われた」ように、キリスト無しに滅びに向かっている人々に対して、心に深い痛みを感じられる者となろう。「収穫は多い」と言われたイエスの言葉を信じて、この日本でも大勢の人々が救いに導かれるビジョンを持とう。「働き手を送ってくださるように」祈ると同時に、「働き手」として立ち上がり、人々に福音を宣べ伝え、人々をキリストの救いに導く者として自分をささげよう。イザヤのように「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言って、「収穫のため」の「働き手」として立ち上がり、「収穫」の「畑」に出て行こう。

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