19.3.17.

ダビデは「主は私の羊飼い」であるゆえに、「私は、乏しいことがありません」と言っています。私たちが満ち足りていることが出来る第3の理由は、「死の陰の谷を歩くことがあっても」、主が「私たちとともにおられ」、「わざわいを恐れ」ることがないからです。

1.死の陰の谷を通るとも災いを恐れない

「羊飼い」なる主は、私たちを「緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」。また、私たちを常に正しい「道に導かれます」。しかし、その「道は、常に平坦で明るいものばかりとは限りません。時として、「死の陰の谷」を通らなければならない時もあるのです。主が「羊飼い」であるならば、「死の陰の谷」を通ることはないとは言っていません。「死の陰」とは、「闇よりももっと深い闇」、「これ以上ないほど深い暗闇」です。それは、荒れ果てた地で(エレミヤ2:6)、そこには危険な崖があったり、獰猛な野獣や盗賊が潜んでいます。いつ危害が襲って来るか分からない、不安や恐れ、死をもたらす地です。

この「死の陰の谷」、「真っ暗闇の谷」は、人生の試練を表しています。私たちの人生には、時として、突如として様々な問題、困難、災い、危険が起こります。そのような時、「真っ暗闇の谷」にいるように、何の解決も助けも見いだせず、出口が見えず、恐れや不安に襲われます。「もうダメだ。絶望的だ」と「死」を覚えるような時もあるかもしれません。

しかし、ダビデは、そのような「死の陰の谷を歩くことがあっても」、「私はわざわいを恐れません」と告白しています。それは、主が「ともにおられ」れるからです。「羊」は、とても臆病な動物です。不安や恐怖を感じると足がすくんで、怖がって一歩も前に進むことが出来ません。そのよう時、「羊飼い」は、「羊」に声をかけたり、さすったりして「羊」を励まします。また、「羊」を抱き抱えて、安全な所まで運んだりもします。「羊」は「羊飼い」の懐に抱かれ、「羊飼い」の温もりを感じながら、運ばれて行くのです。「羊飼い」が一緒ですから、「羊」は、もはや何の不安も、恐れもありません。

同様に、「羊飼い」なる主は、私達を人生の荒野や暗闇に放っておくこともなく、
私達と共にあり、私達を抱き抱え、通り過ぎさせて下さるのです。イザヤ41:1043:1-3

2.安心を与える主のむちと杖

ダビデは、さらに「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と言っています。「むち」とは、30cmほどの「こん棒」のことです。それは、「羊」を叩くものではなく、襲いかかる野獣や盗賊と戦うための武器でした。暗い谷間は、「羊」を襲う野獣や盗賊が潜む、非常に危険な場所でした。野獣などが「羊」に襲いかかる時、「羊飼い」はこん棒を敵に投げつけて撃退します。毒蛇などが出て来たら、こん棒で打ち叩いて殺します。盗賊が「羊」を奪い去ろうとした時には、こん棒で盗賊と戦います。このように、「むち」とは、「羊」を守るためのものなのです。Cf.ミカ7:14

「杖」とは、先が丸く曲がっている長い棒のことです。この「杖」は、「羊」が谷底や穴などに落ちた時に、「杖」の曲がった部分に「羊」を引っ掛けて助け出します。また、群れから迷い出た「羊」の背中に「杖」をあてて、「羊」を誘導し、正しい道に戻したり、群れに連れ戻すために使います。さらに、「杖」は、「羊」を茨の中から救い出したり、野犬などを追い払うのにも使います。「羊飼い」の「むち」と「杖」とは、「羊飼い」の守りを表しています。

同じように、「羊飼い」である主も、私たちを敵から守り、危険から助け出し、私達の歩む道を正しい方向へと導いて下さいます。今日、主が用いられる「むち」と「杖」とは、「御霊」と「御言葉」です。主は、私たちに「もうひとりの助け主」である「真理の御霊」を与えて下さり(ヨハネ14:17)、「その方は」私たちと「ともに住み」、私たちの「うちにおられ」ます(ヨハネ14:17)。恐れや不安の中にある時、聖霊は、私たちを慰め、励まして下さいます。
また聖霊は、私たちに「すべてのことを教え」、主が語られた「すべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。そして、聖霊は、私たちを「すべての真理に導き入れ」(ヨハネ16:13)て下さいます。御霊によって与えられる御言葉によって、私たちは敵の攻撃、恐れや不安から守られ、危険から助け出され、歩みを正しい方向へと修正され、導かれるのです。

ダビデは、詩篇23篇の1~3節では、神を「主」と3人称で呼んでいましたが、4節では、神に「あなた」と親しみを込めて、2人称で直接呼びかけています。これは、「羊飼い」なる主に対する、親しみのこもった呼びかけです。「死の陰の谷」は試練の時ですが、恵みの時でもあります。私たちは「死の陰の谷」でこそ、主に直接呼びかけ、主の臨在に包まれ、親しく交わることが出来るのです。人生の荒野、暗闇を通る時、私たちに必要なのは、この主ご自身の臨在です。不安と恐れの中で、私達の力となり、支えとなり、慰めとなるのは、「あなたが私とともにおられます」という現実です。ダビデは、苦難と悲しみの中で、自分が避けるべき場所を知っていました。それは、主ご自身であり、主の臨在であったのです(詩篇42:5)。人生の荒野、暗闇の中にある時、主を呼び求め、主の臨在に包まれることが必要です。私たちも「羊飼い」なる主の臨在を求めましょう。

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