あきらめなかった母

マタイ15:21-28、マルコ7:24-30

22.5.8.

「カナン人の女」の娘は、「ひどく悪霊にとりつかれて」いました(22)。彼女はイエスに娘の癒しを願いました。どのようにイエスに願ったのでしょう。

1.大胆にイエスのもとに近づく

21節に、「イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた」とあります。「そこ」とは、「ゲネサレの地」(14:34)すなわちガリラヤ地方のことです。「ツロとシドンの地方」とは、フェニキヤのことで、そこは異邦人の地でした。マル7:24には、イエスが「ツロとシドンの地方に立ちのかれた」理由が記されています。それは「だれにも知られたくないと思われた」からです。「パリサイ人や律法学者たち」(15:1)の追跡から逃れるためだったかもしれません。

イエスがツロに来ているということは、直ぐに人々に知られてしまいました。ツロの人々にも、イエスのことはよく知られていました。Cf.マコ3:8マコ7:25には「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した」とあります。そして、彼女はイエスに「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊にとりつかれているのです」と「叫び声をあげて」言いました(22)。彼女のは「自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続け」(マコ7:26)ました。

マタ15:22では、この女は「カナン人の女」となっていますが、マコ7:26では「この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった」とあります。すなわち、彼女は、ユダヤ人ではなく、全くの異邦人であり異教徒でした。しかし、彼女は、イエスに対して「ダビデの子よ」と呼びかけました。「ダビデの子」とは、メシヤ(キリスト)に対する称号(呼び名)でした。彼女は、イエスをメシヤ(キリスト)と信じていたのです。彼女は、異邦人であるのに、大胆にイエスの元に来て、娘の解放と癒しを求めたのです。私たちも、主に期待して、大胆に主の御前に進み行きましょう。Cf.ヘブ4:16

2.あきらめずイエスに求め続ける

彼女がどんなに「叫び声をあげて」「願い続け」ても、「イエスは彼女に一言もお答えに」(23)なりませんでした。つまり彼女を無視したのです。どんなにイエスから無視されても、彼女は「叫び声をあげて」「願い続け」ました。あまりにも彼女が「叫びながらあとについて来るので」、うるさくて仕方なかく、弟子たちはイエスに「あの女を返してやってください」と言いました(23)。こうして、彼女は、弟子たちからも妨害されてしまったのです。

しかしついに、イエスは、彼女に語られました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」(24)「イスラエルの家」は、イスラエルの民、ユダヤ人たちのことです。Cf.マタ10:6。「失われた羊」は、羊飼いなる神から離れ去った状態の人々のことです。Cf.エゼ34:4-6。つまり、イエスは、神から離れてしまっているユダヤ人たちの救いのため、ユダヤ人たちを神に立ち返らせるために遣わされているのであって、異邦人のために遣わされているのではない、ということです。ここでイエスは、神の救いのご計画における、救いの順序について語られたのです。この使命を全うすることが何よりも優先するべきことなのである、ということです。

イエスの言葉は、娘を助けて欲しいという彼女の切なる願いを拒む冷たい言葉でした。しかし「女は来て、イエスの前にひれ伏して」、「主よ。私をお助けください」と言いました(25)。

彼女は、あきらめることなく、求め続けたのです。イエスは、ルカ18:1-8で「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教え」(18:1)ました。祈っていても、直ぐに答えられず、無視されているように感じることもあるります。祈りが妨げられているように、また拒まれているように感じることもあるかもしれません。しかし、あきらめずに祈り続けましょう。Cf. ヘブ10:36

3.イエスの前にへりくだる

イエスは、彼女に「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」(26)と言いました。「子どもたち」はユダヤ人たち、「パン」は神の救い、「小犬」は異邦人たちのことです。ユダヤ人たちのために用意された神の救いという祝福を、異邦人たちに先に与えることは出来ないということです。これは、神の救いのご計画における、イスラエルの優先性を示すものです。

当時、ユダヤ人たちは、異邦人たちのことを軽蔑して「犬」と呼んでいました。しかし、この「小犬」は、ペットとして家で飼われている小犬のことです。イエスは、異邦人をペットの小犬に対するように、愛情をもって見ておられたのです。それにしても、彼女の切なる願いを拒む言葉は、冷たく、不公平に感じます。普通なら、ここまで言われたら、あきらめるか、怒って立ち去ってしまうでしょう。しかし、彼女は、イエスに「主よ。そのとおりです」(27)と答えました。彼女は、イエスの言葉に反発することなく、そのまま受け入れ、自分には、神の救いという祝福を受ける資格も価値もないことを認めたのです。ここに、彼女のへりくだった姿を見ることができます。

更に彼女は「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27)と言いました。彼女は、恵みと憐れみに満ちた主に対する信仰を告白したのです。彼女は、主の恵みを当然の権利として要求せず、恵みに値しない自分に対する特別の恩恵としてこれを求めました。へりくだるとは、自分が主の恵みを受けるに値しない者であることを認めつつも、主の恵みと憐れみのゆえに、主が恵みを与えて下さると信頼することです。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコ3:6)のです。

 

イエスは「あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」(28)と賞賛しました。そして「彼女の娘はその時から直った」(28)のです。私たちも大胆に主の御前に進み行きましょう、あきらめずに祈り続けましょう。

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