19.4.14.

詩篇23篇の1節は、詩篇23篇の表題となっていますが、6節は結論となっています。

ここでダビデは、大きく二つのことを語っています。

1.いつくしみと恵みが追って来る

まずダビデは、「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と告白しています。

① いつくしみ

「いつくしみ」とは、ヘブル語で「トーヴ」といい、「良い」という意味です。この「トーヴ」という言葉は、神が世界を創造された時に、一つ一つの被造物を見て、「良し」(創1章)と宣言された言葉と同じ言葉です。それは、どの角度から見ても欠点がなく、完璧に「良い」ことです。主は、常に「良い」ことして下さる、「良い」お方です。ダビデは、詩篇103:2で、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と言っています。そして、主が「良くしてくださった」一つ一つをあげています。更に、5節では、主は「あなたの一生を良いもので満たされる」と告白しています。

ダビデの生涯は、何の問題もない平穏な歩みではなく、波乱万丈の歩みでした。ダビデは、ゴリヤテを倒しイスラエルに勝利をもたらし、サウル王にも召抱えられました。しかし、ダビデは、サウルに妬まれて命を狙われ、流浪の生活を送りました。また、晩年には、愛する長男アブシャロムが反逆し、ダビデの命を狙ったため、ダビデはエルサレムから逃れ出て、逃げ回らなければなりませんでした。ですから、ダビデの人生は、敵に追われるような人生だったと言えるでしょう。しかし、ここでダビデは、「私を追って来る」ものは敵だとは言っていません。ダビデは、主の「いつくしみ」が「私を追って来る」と告白しています。

② 恵み

「恵み」は、ヘブル語で「ヘセド」といい、「愛、優しさ、親切、思いやり」を意味します。特に、決して変わることのない主の不変の愛、決して破られことのない主の契約の愛、どこまでも真実で、揺るがない、誠実な主の確固とした愛、一貫した愛を表す言葉です。

ダビデは、主を心から愛し、慕い求め、どのような時も主を信頼した偉大な信仰者でした。しかし、罪を犯さない完璧な人生を歩んだわけではありませんでした。ある時、ダビデは、バテ・シェバと関係を持ち、妊娠させてしまいました。そして、それを隠すために、ウリヤを戦場の最前線に送り、戦死させてしまいました。このことは、主の御心を大きく損なうものでした。主は、預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を指摘し、非難しました。ダビデは、自分の罪を認め、深く悔い改めました。すると、主は、ダビデの真実な悔い改めを見て、ダビデを赦されたのです。ダビデに対する主の愛は、決して変わることも、失われることもありませんでした。

また、イスラエルの民は、何度も主に背き、罪を犯してきました。しかし、主は、イスラエルを見捨てることなく、なおもイスラエルを愛されました。主の愛は、決して変わることも、消えることもありません(イザヤ54:10)。

主を「羊飼い」とする者には、「いのちの日の限り」すなわち生涯、「いつくしみと恵みとが」「追って来る」のです。

2.いつまでも主の家に住む

最後に、ダビデは、「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と言っています。「主の家」とは、一般的にはエルサレムにある「神殿」を指します。しかし、ダビデにとっての「主の家」は、神殿が建てられる前の「幕屋」であり、そこには、主の臨在を示す契約の箱が安置されていました(Ⅱサムエル6:12-7:2)。しかし、ダビデが求めていたのは、「主の家」という建物でも、場所でもありません。「主の家」とは、主が臨在される場所のことです。ダビデが求めていたのは、主の臨在であり、主と共に過すことだったのです(詩篇27:4)。ダビデが求めていたことは、この世の富や名誉ではありませんでした。また、単に問題からの解放や、必要の満たしでもありませんでした。ダビデは、ただ主と共にいたかったのです。主との親しい交わりを求めたのです。

「いつまでも、主の家に住まいましょう」とは、「永遠の住まい」のことも意味しています。いつの日か、この地上の生涯を終える時がやって来ます。私たちがこの地上の旅路を終えたら、「羊飼い」なる主が天に用意して下さった「家」に迎えられます(ヨハネ14:2-3)。そこで、私たちは、「いつまでも」、「羊飼い」なる主と共にいるようになるのです。「いつまでも」という言葉の直訳は、「海の長さに至るまで」です。海がどこまでも広がっているように、主と共に過ごす時間は永遠に続くのです。使徒ヨハネは、最終的な天の「主の家」について説明しています(黙示21:3-4)。そこは、言葉は言い表すことの出来ないくらい素晴らしい、幸いな場所です。ダビデは、地上の「主の家」だけではなく、天の「主の家」も待ち望んでいたのです。ダビデは、この地上で主の臨在の中で、主と交わる幸いを感じつつ、さらに天上における主との交わりの幸いを待ち望んでいたのです。

ダビデは、「羊飼い」なる主と共にいるなら、「乏しいこと」が一つもないと知っていました。なぜなら、「羊飼い」なる主が全ての必要を満たして下さり、新しい力を与え、正しい道に導き、災いから守り、平安と慰めを与えて下さるからです。そしてそれ以上に、「羊飼い」なる主と共にいるなら、状況に関わりなく、満ち足りて、感謝し、喜べるからです。ですから、ダビデが願った唯一つのことは、「羊飼い」なる主と共にいることでした。

「いつくしみと恵み」は、追い求めるものではなく、結果としてついて来るものなのです。「いつくしみと恵み」ではなく、主を追い求める時、「いつくしみと恵み」が追って来るのです。「羊飼い」なる主を愛し、慕い求め、信頼し、「いつまでも」主と共に歩みましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師羊飼いの賛美