15.2.8.
ともに主を賛美しよう
詩篇34:3
ダビデは詩篇34:3で「私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう」と勧めています。
ダビデは自分だけが主を賛美するのではなく、主の民が共に賛美するように促しています。
一人で主を賛美することも大切ですが、私たちが共に主を賛美することも大切なのです。
1.ともに集い主を賛美する
自分一人ででも神様を賛美することは出来ますが、
聖書は主の民が共に集い主を賛美することを教えています。詩篇35:18。詩篇149:1。
ペンテコステの日に誕生した教会では、信者たちが「毎日、心を一つにして宮に集まり、
家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美」していました。使徒2:46,47。
私たちが共に集い主を賛美する中に主は臨在されます。詩篇22:3。
この御言葉の「イスラエル」とは、個人のことではなくイスラエルの民のことです。
神様は聖なるお方であり、汚れた所にはおられませんが、
イスラエルの民が賛美する時、その賛美を御座として臨まれるのです。
Ⅱ歴代5:13,14。ソロモン王が神殿を建設し、その神殿を神様にささげる礼拝をしていた時、
楽器を奏でる者たちと賛美を歌う者たちが「まるでひとりででもあるかのように一致して
歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえ」ると、「主の宮は雲で満ちた」のです。
その「雲」は主の栄光の現れで、祭司たちは立って奉仕することも出来ませんでした。
それは、主の特別な栄光の現れで、「シャカイナ・グローリー」と呼ばれるものです。
「シャカイナ・グローリー」とは、目に見える神様の臨在に伴う栄光のしるしです。
2.様々な方法で主を賛美する
聖書には、主を賛美する様々な方法が記されています。
・声高らかに賛美する。詩篇71:23。
へブル13:15。賛美は神様への「いけにえ」ですから感情に関わらずささげられるものです。
また、賛美は「くちびるの果実」ですから、黙っていないで口を開いて賛美するのです。
・喜び叫ぶ。大きな声で賛美する。詩篇98:4。
・手をたたいて賛美する。詩篇47:1。
・手を上げて賛美する。詩篇134:2。
・踊りながら賛美する。詩篇149:3。
・様々な楽器をもって賛美する。詩篇150:3-5。
ダビデ自身もレビ人によるワーシップチームを編成し、
様々な楽器を用いて賛美するように指導しました。Ⅰ歴代15:16、16:4-7。
また、巧みな賛美の歌と奏楽によって賛美するようにとも言われています。詩篇33:3、47:7。
賛美奉仕者は、歌や楽器のために音楽的に訓練された賛美の達人だったのです。Ⅰ歴代25:7。
様々な方法で賛美はなされますが、それぞれがバラバラに勝手に賛美するのではなく、
一致と調和をもって賛美がささげられることが必要です。Cf.Ⅱ歴代5:13。
また、賛美で大切なことは、喜びと感謝をもって賛美するということです。詩篇95:1,2。
人間的、感情的には喜んだり、感謝したりできない時もありますが、
神様の恵みを思い起こす時、私たちの心には感謝と喜びが溢れて来ます。
Ⅱサムエル6:12-23。ダビデは主の箱の前で人の目を気にせず跳ねたり踊ったりしました。
自分の周りの人を気にしてしまうと、自由が失われ、心からの賛美が出来なくなります。
私たちも周りの人を気にしないで、様々な方法で心からの賛美を主にささげるのです。
3.賛美をもって主に近付く
主を賛美することは大切ですが、賛美を歌うことが私たちの最終的な目的ではありません。
賛美は、私たちが神様に近付くための「道」なのであり、
私たちが主の臨在に入って行くための一つの「方法」なのです。
聖書は、賛美をしながら神様に近付くようにと教えています。詩篇95:2。詩篇100:2,4。
私たちは、感謝と喜びをもって賛美しながら、主の臨在をお迎えし、
同時に私たち自身も主に近付き、主の臨在へと入って行くのです。
たとえ心配事や悩みがあったとしても、それらは全て神様に委ね、
ひたすら神様ご自身を慕い求めていくのです。
賛美をもって主に近付いて行く時、主も近付いて下さいます。ヤコブ4:8。ホセア6:3 。
ダビデは主の臨在の中にある幸いを歌っています。詩篇16:8,9.11。
どのような中にあっても、主の臨在の中にある時に、悲しみは喜びに変えられ、
恐れは平安に変えられ、思い煩いは希望に変えられます。
出エジプト34:29,30。モーセがシナイ山で主の臨在に触れられ、彼の顔は輝きました。
私たちも主の臨在に触れられる時に、喜びや希望に輝く者とされるのです。
本当に恵まれた礼拝とは、単に沢山の賛美が歌われているとか、
音楽的レベルの高い賛美やエンターテイメント的な礼拝ではありません。
聖霊が豊かに臨み、聖霊が自由に働かれる礼拝です。
私たちには信仰を励まし合う信仰の友、主にある兄弟姉妹が必要です。
なぜなら、私たちは一人では弱く、一人では倒れてしまうからです。
自分一人だけでは、自分の抱える問題に押しつぶされ、なかなか賛美出来ません。
また、孤立してしまったり、重荷を抱えて一人で悩んでしまうと、
益々考え方が否定的・消極的になってしまい賛美出来なくなります。
ですから、一緒に集まることを止めず、益々励まし合って共に集まるのです。ヘブル10:25。
礼拝に行きたくない時や主にある兄弟姉妹の交わりを避けたい時というのは、
逆に最も教会に行くべき時、兄弟姉妹との交わりと礼拝を持つべき時なのです。
私たちは、兄弟姉妹と共に主を仰ぎ、共に主を賛美することが必要なのです。
一人では賛美出来なくても、兄弟姉妹との賛美の中で、
自分の思いも神様に向けられ、重荷から解き放され、賛美が出来るようになります。
そして、兄弟姉妹と共に賛美していくことによって、
主の臨在に触れられ、満たされ、慰められ、励まされ、強められるのです。
兄弟姉妹と共に賛美することによって、次第に自分の信仰も高められていくのです。
それゆえに、ダビデは、私たちに共に賛美しようと招いているのです。
詩篇34:3。私ともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
Filed under: 伊藤正登牧師