20.3.15.
イエスは、神殿に入られると、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し初め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し」(15)、「宮を通り抜けて器具を運ぶことを…お許しに」(16)なりませんでした。これは、「宮きよめ」と呼ばれる出来事です。なぜこのような過激な行動に出たのでしょう。イエスは、私たちに何を願っておられるのでしょうか。
1.神殿は祈りの家である
この時は、ちょうど「過越の祭り」の時で、ユダヤ全土だけではなく、世界各地に離散していたユダヤ人もエルサレムに集まりました。そして、エルサレムの神殿では、多くの動物のいけにえがささげられました。いけにえにする動物は、病気や傷のないものでなければなりませんでした。しかし、旅の途中で弱って病気になったり、怪我をしてしまう動物たちもいました。そのため、遠くから来る巡礼者たちのために、神殿の庭では、いけにえの動物が売られていました。いけにえの動物は、本来は羊や牛でしたが、貧しい人々は羊や牛の代わりに「鳩」をささげることが許されました。
また、巡礼者たちは、神殿税を払わなければなりませんでした。当時の貨幣は、ローマ帝国の貨幣で、ローマ皇帝の顔のレリーフが施されていました。それは、ユダヤ人にとって偶像であり、異教徒・偶像崇拝者の貨幣は汚れたものであり、神聖な神殿にささげることの出来ない貨幣でした。神殿でささげられる貨幣は、ユダヤの貨幣(シェケル)でなければなりませんでした。そこで、ローマの貨幣をユダヤの貨幣と交換する「両替人」がいました。「両替人」たちは、その手数料によって、莫大な利益を得ていました。そして、その利益の一部は、神殿の祭司たちの懐にも入っていました。
この商売(神殿ビジネス)がされていたのは、「異邦人の庭」と呼ばれる場所でした。そこは、異邦人たちが神殿で祈ることの出来る唯一の場所でした。しかし、そこは「宮の中で売り買いしている人々」、「鳩を売る者たち」、「両替人」たち、「宮を通り抜けて器具を運ぶ」人々で、市場のように賑やかでうるさい場所となってしまい、祈りをささげられる雰囲気ではありませんでした。結局、せっかく遠くから来た異邦人たちの祈りを妨げることになってしまったのです。イエスは、このような状態に非常に憤りを感じ、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒し、宮を通り抜けて器具を運ぶこと」を許さなかったのです。そして、イエスは、旧約聖書のイザ56:7を引用して、言われました。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」「わたしの家」とは、神殿のことであり、神殿は祈りの場であるべきなのです。
2.教会は祈りの家である
今日、クリスチャンの集まりである教会が「神の神殿」(Ⅰコリ3:16-17)なのです。エペ2:21-22には、「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」とあります。エルサレムの神殿が「祈りの家」と呼ばれたように、教会も神殿であり、「祈りの家」ですから、そこでは祈りがささげられていなければなりません。今日、私たちの教会は、「祈りの家」となっているでしょうか。「祈りの家」であるべき教会から、祈りが消えてしまっていることはないでしょうか。祈ることよりも、何か活動することが優先されてしまってはいないでしょうか。教会には、様々なプログラムやイベント(行事)や活動があります。しかし、何よりもまず、祈りがささげられなければならないのです。
ルカ10:38-42。マルタは、イエスのための「もてなしのために」(40)、忙しく動き回っていて、「気が落ち着か」なかったとあります。マルタは、イエスのために、「いろいろなことを心配して、気を使って」(41)いて、心はイエスから離れていました。マルタの心は苛立っていたことでしょう。一方、マリヤは、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(40)いました。ついに、マルタは、マリヤに対して不満をもち、イエスにさえも不満をぶつけました。マルタの心は、奉仕に捕らえられていましたが、マリヤの心は、イエスに捕らえられていたのです。私たちの心は、何に捕らえられているでしょうか。イエスでしょうか、活動でしょうか。マリヤのように、主の足元に行き、主の御声を聞く時を持つことが大切です。
また、私たちクリスチャンは、「王である祭司」(Ⅰペテ2:9)であると言われています。元々、「祭司」は、イスラエルの12部族の中のレビ族の家系から出ました。レビは、ヤコブの3番目の息子で、「結ぶ」という意味の言葉の派生語です(創29:34)。その名前には、「神と結びつく」、「神と人を結ぶ」という意味が隠されています。ですから、「祭司」の重要な務めは、働くことではなく、まず神の臨在の中にいることです。すなわち、神の御前に出て、神を仰ぎ見、神と顔と顔とを合わせ、神と交わることです(詩23:6、26:8、27:4)。そして、神と人々の間に立って、人々のために執り成し、神と人々を結びつけるのです。私たちクリスチャンは、そのような「祭司」の役割が与えられているのです。一人一人のクリスチャンが「生ける石」として、教会という「霊の家」に建て上げられ、「聖なる祭司として」、「イエス・キリストを通して」、「神に喜ばれる霊のいけにえ」すなわち祈りをささげるのです(Ⅰペテ2:5)。
今日、クリスチャンの間には祈りがおろそかにされている傾向があります。主を無視するところには、主の臨在はなく、主の働きもありません。しかし、祈る教会には、主の臨在と力と命があふれています。教会で行われる全てのことは、主の臨在から流れて来るべきです。主は、私たちの教会が「祈りの家」であることを望んでおられます。「祈りの家」となり、「聖なる祭司として」、絶えず祈りをささげましょう。
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