ゲッセマネの祈り

マルコ14:32-42

21.3.21.

受難週の5日目、木曜日。イエスが十字架にかかって死なれる前夜、イエスは、弟子たちと「最後の晩餐」と呼ばれる「過越しの食事」をとった後、「ゲッセマネという所」(32)に来て祈りました。

1.イエスの苦悶

「ゲッセマネ」は、エルサレムの東にあるオリーブ山の麓の「園」(ヨハ18:1)です。「ゲッセマネ」とは、ヘブル語で「油しぼり」という意味です。「ゲッセマネ」の「園」には、かつて多くのオリーブの木がありました。そして、オリーブの木から取れる実から油をしぼる圧搾所があったと言われています。ルカ22:39-40には、「いつものようにオリーブ山に行かれ」、「いつもの場所に着いた」とあり、ヨハ18:2には、「イエスがたびたび弟子たちとそこで会合された」とも書いてあります。イエスは、「いつも」「ゲッセマネ」の「園」で祈りの時を持っていたのでしょう。

イエスは、弟子たちに「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」(32)と言い、「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」だけを「いっしょに連れて行かれ」ました(33)。この3人は、重要な場面で、常にイエスの近くにいました。そして、「イエスは深く恐れもだえ始め」(33)、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(34)と言われました。「もだえる」とは、「苦痛などのあまり体をよじる」ことです。

イエスは、弟子たちに「ここを離れないで、目をさましていなさい」(34)と言われました。ルカ22:40では「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と書いてあります。ここでの「誘惑」とは「睡魔(眠気)」のことと考えられます。つまり、イエスは弟子たちに「目をさまして」「祈っていなさい」と言われたのです。イエスは、「恐れ」、「苦悶」、「死ぬほど悲しみ」、孤独を感じていたでしょう。まだ信仰も弱い弟子たちに、共にいて欲しいと願う程、孤独と戦っていたのです。心を合わせて一緒に祈ってくれる人がいるということは、心強いものです。イエスが抱いた「恐れ」、「苦悶」、「死ぬほどの悲しみ」は、私たちの想像を遥かに超えるものでした。それは、オリーブの実が圧し潰されて油をにじみ出すような状態でした。

2.イエスの願い

イエスは、「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」(35)と祈りました。イエスは、十字架で死ななければならない「時」を知っていました(ヨハ12:27)。イエスは自分の十字架の死を予告し、これまでずっと十字架に向かって歩んで来ました。しかし、「アバ、父よ。…どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(36)と祈りました。「アバ」とは、父親に対する最も親しい呼び方です。

マタ20:22でも、イエスは「わたしが飲もうとしている杯」があると言われました。「この杯」は、イエスが受けるあらゆる「肉体的苦痛」、「」であると言われています。しかし、聖書では、「杯」は「神の怒り」、「神の裁き」を表します(イザ51:17エレミヤ25:15)。イエスが「飲もうとしている杯」は、「神の怒りの杯」だったのです。すなわち、イエスが私たち人間の罪を身代わりに負い、その罪に対する神の怒りと裁きを私たちの身代わりに受けるという「杯」だったのです。そして、最終的には、親愛なる天の父なる神に見捨てられるということでした。ですから、イエスは、十字架の上(第4の言葉)で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)と叫ばれました。Cf.詩22:1

神の御子であるイエスにとっての「恐れ」、「苦悶」、「死ぬほどの悲しみ」とは、単にこれから受ける「苦しみ」や「」ではありませんでした。イエスが逃れたかったことは、全人類の罪を負い、十字架にかかって呪われた者となり、親愛なる父なる神の怒りと裁きを受け、見捨てられてしまうことだったのです。イエスは、父なる神の御心が十字架であることを知っていました。しかしそれでも、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたのです。

3.イエスの服従

イエスは「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(36)と祈りました。イエスは、自分の願いを通そうとしたのではなく、神の御心に従おうとされたのです。41節に「三度目に来て」とあるので、イエスは、同じことを3回繰り返して祈りました。しかし、それは簡単な繰り返しではありませんでした。ルカ22:44には「汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。イエスは、十字架を前にして、極度の緊張状態で祈っておられたのです。イエスは、単に自分の願い事を祈り、何とかそれを叶えてもらおうとしたのではなく、祈りの中で、父なる神の御心を改めて確信したのです。祈りとは、願い事を押し通すことではなく、神の御心を知り、確信するためのものなのです。

イエスは言いました。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」(41)「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(42)イエスは、父なる神が願いを叶えて下さらないから、仕方なく従ったのではありません。イエスは、喜んで父なる神の御心に従い、十字架へと向かわれたのです。ヘブ12:2には、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び」とあります。「ご自分の前に置かれた喜び」とは、「十字架の死」の向こうにある「復活」です。そして、さらにその先にある私たちの「救い」です。Cf.イザ53:10-11。イエスを信じる者が罪の滅びから救われ、永遠の命を持つことを見て喜ばれたのです。その「喜びのゆえに」、苦しみも耐え忍び、十字架へと向かわれたのです

 

イエスは、私たちを救うために、「自分から十字架」へと向かわれました(Ⅰペテ2:24)。私たちを救うために、十字架まで行かれたイエスに感謝しましょう。そして、私たちも主の御心を求め、どのような苦難の道であって、主の御心のを歩みましょう。