200927

どんな人も欠点があり、罪を犯すこともあれば、失敗することもあります。罪を犯したり、失敗してしまった人に対して、どのように接したらよいのでしょうか。ノアの子供たち、セム、ハム、ヤペテの態度から学びましょう。

1.ノアの恥を見て見下げたハム

大洪水の後、ノアは主にいけにえをささげ、救ってくださった主を礼拝しました。その後、ノアはぶどう畑を耕しました。そしてぶどうを収穫し、ぶどう酒を作って、天幕で飲んでみました。すると酔ってしまい、素っ裸になって寝てしまいました。それは大変恥ずかしい姿でした。

ハムは、偶然天幕の中で裸で寝ている父の姿を見てしまい、それを兄たちに告げました。ハムにとってノアは、良いお父さんです。さらに、大洪水から救ってくれた命の恩人であり、神のことばを告げる預言者でした。それなのに、ハムは父を見下げ、笑いものにしようと思ったのでしょう。

私たちは人の失敗や欠点にはよく気が付きます。しかし、人の失敗をあざ笑ったりしてはいけません。もし人を裁くなら自分も裁かれます(マタイ7:1-5)。見下げるなら見下げられ、笑いものにするなら、自分も笑いものにされるのです(ローマ2:6)。

ハムにはノアに対する愛はありませんでした。人の失敗や欠点を見下げるのではなく、互いに赦し合い、互いに親切にし、互いに愛し合いましょう(エペソ4:32)。

2.ノアの恥を覆ったセムとヤペテ

セムとヤペテは、ノアが裸で寝ていることをハムから聞きました。セムとヤペテにとってもノアは父であり、預言者であり、自分たちの命の恩人です。どれだけ感謝してもしきれない存在です。それで彼らはノアの裸を見ないように、後ろ向きに歩き、着物をかけてあげました。セムとヤペテは失敗した父を笑うことなく、その恥を覆って、その不名誉を取り除いてあげました。これこそ主の教えです(ヨハネ13:14洗足)

私たちは失敗した人を裁かないだけでなく、赦し、補い、助け、立ち直るように導くことが大切です。

パウロも、肉体に何か問題があったのに、ガラテヤの教会の人たちは軽蔑しないで受け入れました(ガラテヤ4:13-14)。また、パウロが鎖につながれていましたが、それは人間的には恥であるにもかかわらず、オネシポロの家族はそれを恥と思わずパウロを助けました(Ⅱテモテ1:16-18)。

ペテロも3度イエスを知らないと言って、大失敗をしてしまいましたが、イエスは彼を立ち直らせました。

主イエスは私たちの罪を負い、私たちが受けるべき恥をその身に受けてくださいました。ですから、私たちもイエスがしてくださったように、互いに愛し合いましょう(ヨハネ13:34)。愛は寛容であり、親切であり、人のした悪を思いません(Ⅰコリント13:4-8a)。憐れみ深い神は、私たちの失敗をも益に変えてくださる方です(ローマ8:28)。

3.人を赦し、立ち直らせるなら祝福となって帰ってくる

ノアはハムがしたことを聞くと、ハムの子カナンを呪いました。こうして子孫に呪いが続いてしまいました。その結果、カナンの子孫が支配されるようになったのです。

セムとヤペテはノアに対して愛と配慮をもって接しました。このことは彼らの祝福となりました。セムは「しるし、名前」という意味で、神の民としてのしるしとなり、神の民イスラエル民族はセムから出ました。ヤペテは「広げる、解き放つ」という意味で、世界中に解き放たれ、広い領土を支配するようになりました。また、セムとヤペテの受けた神の恵みは子々孫々へと受け継がれてゆきました。

 

だれでも失敗したり、罪を犯したり、恥をさらしたりするものです。そのとき私たちは裁いたり、笑いものにしたりしないで、愛をもって赦し、補い、助け、悔い改めによる正しい道へと導きましょう。

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