
20.10.4.
アブラハムは、罪深い町ソドムが滅ぼされず、救われるように執り成しました(創18章)。しかし、結果的に「主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされ」(24-25)ました。このソドムの滅亡から、どのようなことが教えられるのでしょうか。
1.神の裁き(滅び)の時は必ずやって来る
アブラハムと分かれた2人の御使いは、その日の「夕暮れに」(1)ソドムに着きました。ロトは、自分の家に2人を招き入れ、彼らのために「ごちそうを作り」(3)もてなしました。すると、ソドムの男たちがロトの家を取り囲み、2人を出すようにと要求してきました。男たちは、戸を破って、ロトの家に押し入ろうとしたので、2人の御使いは、男たちに「目つぶし」(11)を食わせて、彼らの侵入を防ぎました。そして、2人のは、ロトに家族や身内を連れて、ソドムから逃げるようにと言いました(12)。そこで、ロトは、急いで「娘たちをめとった婿たち」(14)のところに行き、言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」(14)しかし、ロトの娘婿たちには、「それは冗談のように思われた」(14)ました。ロトの娘婿たちは、ロトの言うことを信じられませんでした。
聖書は、この罪深い世界も、神に裁かれ、滅びる時が来ると教えています(マタ24:35)。これからまず起こることは、イエス・キリストの再臨です。弟子たちの前で、「天に上げられた…イエスは」、再びこの地上に戻って来られます(使1:11)。その時がいつであるかは、父なる神以外誰も知りません(マタ24:36)。しかし、イエスは、再臨の前に、どのような「前兆」があるのか教えて下さいました(マタ24:3-14)。再臨の時、どのようなことがおこるのかは、Ⅰテサ4:16-17に記されています。その後、この地上では、患難時代と呼ばれる「いまだかつてなかったような…ひどい苦難」(マタ24:21)の時がやって来ます。この時、多くの人々が死にます。患難時代は、罪深い世界に対する、神の裁きの時なのです(イザ26:21、34:1-4)。
神の裁きの時、滅びの時は必ずやって来ますが、主は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテ3:9)
2.主の憐れみと恵みによって救われる
Ⅱペテ2:7では、ロトは、「義人ロト」と言われています。そして、「無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた」(Ⅱペテ2:7)とか、「不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていた」(Ⅱペテ2:8)とも書いてあります。しかし、それでもロトは、ソドムに住み続けました。それがロトの問題点でした。ロトは「ソドムの近く」(13:12)に住んでいましたが「ソドムに」(14:12)住むようになりました。そして、この19:1には、ロトは、「ソドムの門のところにすわっていた」とあります。ロトが「門」の所に座っていたということは、ソドムで高い地位にあったということです。また、ロトには2人の娘たちを罪深いソドムの男と結婚させました。また、ロトは、御使いたちを町の男たちから守るため、娘たちを「あなたがたの好きなようにしてください」(8)言って、差し出そうとしました。このように、ロトもソドムの町の影響を受け、良心が正常に働かなくなっていました。
御使いたちはロトに「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう」(15)と命じました。それでもロトは、ソドムを脱出することを「ためらって」(16)いました。ロトも、娘婿たちのように、御使いたちが言うことを信じられなくなっていたのです。すると、御使いたちは、ロトの「手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手」をつかみ、「彼らを連れ出し、町の外に」置きました(16)。それは、ただ「彼に対するあわれみによる」(16)ことであったのです。
主は、罪深く滅びに向かっていた私たちを憐れんで下さいました。そして、そんな私たちを一方的に愛し、救いへと導いて下さいました(エペ2:4-6)。
3.救いの達成を目指していく
御使いたちは、ロトたちをソドムの町の外に「連れ出し」(16)ました。さらに、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう」(17)と言いました。ロトには、ソドムにそれなりの財産もあったでしょう。親しい人々もいたでしょう。しかし、主は、後ろのものに心を惹かれて振り返るようなことはせず、立ち止まらず、命がけで一心に山に向かって走るようにと仰せられたのです。
主の憐れみと恵みによって救われた私たちは、しかし、さらに「救いの達成」(ピリ2:12)を目指すことが求められているのです。私たちに与えられている救いは、完璧なものですが、それが完全なものとして体験できるのは、将来の御国においてです。私たちは「救いの達成」という高い目標に向かい、信仰の道を走っています(ピリ3:12-14)。「救いの達成」を目指す道、それは「きよめの道」とも言えるでしょう。この世と調子を合わせず、全ての悪と汚れをかなぐり捨て、またあらゆる束縛や重荷を振り捨てて、進むのです(ロマ12:1-2、ヘブル12:1-2)。
この後、「主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」(24-25) その時、ロトの妻は、後ろを「振り返ったので、塩の柱になって」(26)しまいました。彼女は、ソドムに置いて来た財産、生活、友人、楽しみが懐かしくなったのです。私たちも、この世の罪と滅びの中から救い出されました。しかし、ロトの妻のように、この世の富や楽しみ、古い生活を懐かしみ、立ち止まってしまうなら、霊的な命と力を失ってしまうのです(ルカ17:32-33)。
やがてイエスはこの世界に帰って来られ、この世界も滅びて終わる時が来るのです。聖書は、「滅びの中から逃れ出るように」と語っています。今は、恵みの時、救いの時です(Ⅱコリ6:1-2)。イエスを信じて、罪と滅びから救っていただきましょう。そして、この世のものを後にして、「救いの達成」を目指して進んでいきましょう。
Filed under: アブラハムの信仰の旅 • 伊藤正登牧師