
20.5.10.
旧約聖書における偉大な指導者サムエルの母親となったのは、ハンナという女性でした。ハンナは「祈りの人」でした。彼女はどのような祈りをしたのでしょう。
1.神の前に出て祈る
ハンナは、エルカナに愛されていましたが、子どもがいませんでした。当時は、不妊の女は、「呪われた者」と考えられていました。ですから、ハンナは自分が神に見捨てられていると感じていたかもしれません。また、「不妊の原因は私のせいだ」と自分を責めたりしていたかもしれません。さらに、周りからも冷たい目で見られ、肩身の狭い思いをしていたかもしれません。
ハンナを更に悲しませ、傷つけたのは、エルカナのもう一人の妻ペニンナでした。ペニンナには子どもがいましたが、ハンナがエルカナの愛を独り占めしていたので、ハンナを妬み、ハンナに子どもがいないことを意地悪く言っていたのでしょう(6)。そのため、「ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった」(7)のです。エルカナはハンナに「なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか」(8)と言って慰めました。とても優しい言葉でしたが、ハンナの悲しみを拭うことは出来ませんでした。
そこで、ハンナは「主に祈って、激しく泣」(10)きました。ハンナは、自分の苦しみを主なる神のところに持って行ったのです。実は、ペニンナにも悩みと悲しみがありました。それは、子どもはいるけれども、夫の愛を受けられないということでした。ペニンナは、その不満をハンナにぶつけていたのです。しかし、ハンナが選んだことは、人に向かうことではなく、神に向かうことでした。ハンナは、神を「万軍の主よ」(11)と呼び、全能の神こそが自分を助けることの出来る唯一のお方であると信じたのです。
苦しみの中にある時、人に解決を求めてしまいがちですが、実は人から離れ、神の御前に出ることが解決への道なのです。神は、私たちが御前に来ることを待っておられ、私たちを招いておられます(詩50:15)。
2.心を注ぎ出して祈る
ハンナの祈りで、注目すべき点は、「心を注ぎだして」(15)祈ったということです。10節には「彼女は主に祈って、激しく泣いた」とも書いてあります。ハンナは、悲しみ、怒りなど全ての思いを、神の前に注ぎ出して、涙ながらに祈りました。その祈りは、形式的な祈りでも、綺麗な祈りでもなく、彼女の思いをぶつけるような、神に訴えるような祈りだったのではないでしょうか。祈りに決まった形式などありません。綺麗な祈りをする必要もありません。イエスも「大きな叫び声と涙とをもって」(ヘブ5:7)祈られました。神は、私たちの叫ぶような、訴えるような祈りにも耳を傾けて下さいます。詩62:8には、「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」と語られています。私たちも、主の前に出て、「心を注ぎだして」祈りましょう。
ハンナは「主の前で長く祈って」(12)いて、「心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえ」(13)ませんでした。そのため、祭司エリはハンナが「酔っている」のだと思ってしまいました。そこで、エリは「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」(14)と声をかけました。しかし、ハンナは、「酔っている」のではなく、「主の前に」、「心を注ぎだし」(15)、「つのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(16)と答えました。
ペンテコステの日に、聖霊に満たされた弟子たちも、人々から「甘いぶどう酒に酔っている」(使2:13)ように見られたことと似ています。ハンナも「心を注ぎだし」祈っている内に、聖霊に満たされて祈っていたのかもしれません。どのように祈ったらよいのか分からなくなる時、聖霊は、私たちが「心を注ぎだし」て祈れるように助けて下さるのです(ロマ8:26-27)。
3.確信と平安が与えられるまで祈る
祭司エリは、「心を注ぎだし」て祈っていたハンナに「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」(17)と語りかけました。ハンナは、このエリの言葉によって、自分の祈りが聞かれたという確信が与えられました。その結果、ハンナの心には平安が与えられました。以前は「泣いて、食事をしようともしなかった」(7)のに「食事を」(18)するようになりました。そして、「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(18)と記されています。状況は、まだ何も変わっていませんでしたが、彼女の心が変わったのです。現実には、まだ子どもは与えられていませんでしたが、ハンナの心の中には、もはや悲しみや嘆きはありませんでした。ハンナの心は、悲しみから喜びへと変えられたのです。
ハンナは、「長く」(12)、「主の前に」、「心を注ぎだし」(15)、祈る中で、神が必ず祈りに答えて下さるという確信が与えられ、心の平安が与えられたのです。確信と平安は、人間的な論理によってではなく、祈りによって得られるものです。ハンナは、確信と平安が与えられるまで、忍耐をもって祈り続けたのです。私たちも、神が聞いて下さったと確信出来るまで、忍耐をもって祈るのです。「神が聞いておられる」、「神が知っていて下さっている」、「神が答えて下さる」、「神が働いて下さる」と確信や御言葉が与えられる時、平安も与えられます。
パウロは、ピリピの信者たちに語っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリ4:6-7) 確信と平安が与えられるまで祈り続けましょう。
「日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を」(20)産み、「サムエル」(20)と名づけました。サムエルという名前の意味は「主に聞かれる」です。まさにハンナの祈りの答えとして、サムエルは誕生したのです。私たちも、神の前に進み出て、心を注ぎ出し、確信と平安が与えられるまで祈りましょう。