Ⅰサムエル3章

23.1.22.
3:1よると「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」とあります。その時代、主の語り掛けは「まれ」にしかなく、「幻が示され」ることもありませんでした。主からの啓示の無い、霊的な暗黒時代だったのです。そのような時代に、どうしてサムエルは主の御声を聞くことができたのでしょう。どのようにしたら、主の御声を聞くことができるのでしょう。
1.主の臨在にとどまる
サムエルは、常に主の臨在の中にいました。2:21には「少年サムエルは、主のみもとで成長した」とあります。「主のみもとで」は、NIVでは「in the presence of the Lord」となっています。つまり「主の臨在の中で」という意味です。サムエルは、主の臨在の中で成長したのです。3:3には「サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた」とあります。「主の宮」には、「神の箱」がすなわち「契約の箱」が置かれていました。そして、「神の箱」は、主の臨在を象徴するものでした。サムエルは、いつも「主の宮」で、主の臨在の中で、主に仕えいました。このように、サムエルは、幼い頃から、主の臨在を感じ、体験していました。それゆえに、サムエルは、主が語りかける声を聞くことが出来たのです。
祭司エリの息子たちホフニとピネハスも、サムエルと同じような環境に置かれていました。彼らも、一応祭司の息子として、幼い頃から神のことを教えられてきたはずですし、主についての知識は持っていたでしょうし、「主の宮」で奉仕していました。しかし、祭司エリの息子たちホフニとピネハスは、非常な悪人で、主を恐れませんでした。人々が、主にいけにえの動物をささげようとすると、ホフニとピネハスは、力づくでその肉を横取りして、自分たちのものとしました(2:13-16)。また、彼らは、主の宮で「仕えている女たち」と姦淫の罪を犯しました(2:22)。ですから、「子たちの罪は、主の前で非常に大きかった」(2:16)と言われています。
祭司エリの息子たちは主をさげすむ者となり、サムエルは主を尊ぶ者となりました。この祭司エリの息子たちとサムエルの違いは、主の臨在を体験しているかどうかという違いだったのです。私たちも、ただ主について知識として知っているだけとか、ただ教会の礼拝に出席しているだけでは、十分ではありません。サムエルのように、主の臨在に触れることが必要です。主との親しい交わりが必要です。ダビデは、主を愛し、常に主との親しい交わりを求めていました。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩27:4)「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。」(詩84:10)私たちも、主との交わりを慕い求め、主の臨在にとどまることが必要です。
2.聞く耳を持つ
エリは、サムエルに言いました。「今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」(9) そして、再びサムエルが寝ていると、「主が来られ、そばに立って」、「サムエル。サムエル」と呼ばれました(10)。そこで、サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と答えました(10)。
主がサムエルに伝えたことは、「エリの家」に対する厳しい裁きについてでした(11-12)。それは、エリが「自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった」からです。このため、「エリの家」は、「永遠に」裁かれることとなったのです。これは、イスラエル人にとって両耳が鳴るほどのバッドニュースでした。ですから、朝になった時、サムエルは、これをエリに伝えるのを恐れました。私たちが主の語りかけを聞くためには、サムエルのように心を開き、主に耳を傾けることが大切です。主の前に静まって、心を空っぽにして、「主よ。お話ください。しもべは聞いております」と聞く姿勢が大切なのです。
私たちは、自分が聞きたいこと、願うことについてだけ聞こうとしていないでしょうか。自分の思い、自分の願いを持ったままでは、主からの語りかけを聞くことは出来ません。主の語りかけを聞く姿勢が出来ていないなら、祈っても、聖書を読んでも、主からの語りかけを聞くことが出来ないのです。自分の思いや願いを全て主に明け渡し、主が語られる通りをそのまま聞く姿勢が大切です。たとえ、聞きたくないことでも、知りたくないことでも、聞かなければなりません。サムエルが主から聞いたメッセージは、良い知らせではなく、自分の恩師エリの家に対する主の裁きでした。それでも、サムエルは、主が語られることをそのまま受け入れました。
イエスは、弟子たちに「聞く耳のある者は聞きなさい」(マコ4:9,23)と語られました。それは、「どのようなことであっても、主が語られることを受け入れます」という姿勢です。たとえそれが自分にとって痛いこと、都合の悪いことであっても、主が語られることを受け止めていく姿勢を持たなければなりません。主の語りかけを待ち望むことが大切です。
3:19には「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった」とあります。サムエルは成長し、主がサムエルと共におられたので、主がサムエルを通して民に告げたことで実現しなかったことは一つもありませんでした。「こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った」のでした。イスラエルの北から南まで全ての人々が、サムエルを「預言者」と認めました。私たちも、主の臨在を慕い求め、主の御声を聞く者となりましょう。サムエルは、主の臨在の中で、主の御声を聞きました。主の臨在の中で、主は、私たちに直接語りかけて下さいます。