17.7.9.
主の足もとに
ルカ10:38-42
私たちに委ねられている使命は、福音を宣べ伝えることです。マコ16:15。
そのために、私たちは、様々なイベントや活動をして、人々を教会に誘っています。
しかし、私たちの最終ゴールは、人々を信仰へと導き、主の弟子へと導くということです。
どうしたら、人々をキリストへと導けるのでしょうか。
1.どうしても必要なことは多くはない
色々なイベントや活動を行って、人々を教会に引き付けることはある程度は出来ます。
人々が関心を持っていること、魅力的なプログラムをすればよいのですから。
しかし、そのイベントや活動が終わってしまうと、人々は去って行ってしまいます。
そこで、再び、別のイベントや活動を行い、人々を誘い、導こうとします。
そのようなことを繰り返しているうちに、疲れ果ててしまいます。
そして、疲れ果てると、意欲が失われ、やがて教会から活力が失われてしまいます。
主は、私たちにこのように語り掛けておられます。
「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」
これは、イエス様がマルタに語り掛けられた言葉です。
マルタは、イエス様を「喜んで家にお迎え」(38)しました。
恐らく、マルタは、もてなしのために、朝からずっと働きっぱなしだったのでしょう。
一方、マリヤは、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(39)いました。
恐らく、イエス様も、喜んでマリヤに話しかけ、親しくしておられたのでしょう。
その様子を見た時、マルタの中に不満が爆発してしまい、イエス様に訴えました(40)。
そのようなマルタに、イエス様は「マルタ、マルタ」と愛情を込めて優しく語られました。
イエス様は、マルタの一生懸命なもてなしの奉仕を否定されたのではありません。
マルタのような奉仕も必要です。皆がマリヤのようだった、何も進みません。
イエス様が言われたことは、「どうしても必要なこと」は「一つだけ」であるということです。
イエス様は、「たった一つのどうしても必要なことを忘れている」と言われたのです。
2.イエス様を主とする生き方をする
「たった一つのどうしも必要なこと」とは、「イエス様を自分の主とする」ことです。
マルタは、イエス様よりも、もてなしの奉仕の方が重要になってしまいました。
クリスチャンであるなら、誰でも「イエスは主です」と告白しているはずです。
しかし、生活のあらゆる面において、イエス様が主、第一となっているでしょうか。
優先順位を確立しなければならないということをよく聞きます。
たとえば、第1は神様、第2は家庭、第3は仕事、第4は教会、というように。
しかし、人間的な合理主義的な考えで、まるでケーキやピザを切り分けるように、
私たちの生活を神様と家族と仕事と教会に分離させてしまってはいないでしょうか。
私たちの生活が、神様にささげた部分と、そうでない部分に分離してしまっているのです。
その結果、多くのクリスチャンが世の誘惑に負けて、罪を犯してしまったり、
御心とかけ離れた生き方をしてしまっているのです。
そいう人は、大抵、「聖書にはそう書いてあるけど、現実は違う」、
「教会ではそうかもしれないけど、世の中は違う。そんなに甘くない」と言い訳します。
確かに、イエス様は、第一の戒めは神様を愛することであり、
第二の戒めは隣人を愛するようにと教えられました。マタ22:37-39。
しかし、これは優先順位を教えているものではなく、私たちの愛の方向性を指すものです。
また、イエス様は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタ6:33)と言われましたが、
それは、私たちの生活の全ての領域で、常に神様を第1とするようにということです。
私たちの生活を「家庭、職場、教会」というように切り分けて考えるのではなく、
生活の全ての面で、常に神様を第1とし、イエス様を主とすることが必要なのです。
3.イエス様の御言葉に従う弟子となる
イエス様を主とする生き方とは、イエス様の弟子になるということであり、
イエス様の言葉に従って生きる者となるということです。ヨハ8:31-32。
「イエス様だったらどうするだろう」ということを考えながら、
御言葉を思い起こし、御言葉に従って歩むのです。
御言葉は、私たちを縛り、私たちを不自由にするものではなく、
私たちに真理を教え、私たちが真理に歩める自由を与えるためのものです。
イエス様の御言葉に従って歩むようになるためには、
マリヤのように、まず「主の足もとにすわって、みことばに聞き入」ることが必要です。
私たちは、あまりにも忙しい生活をしていて、
「主の足もとにすわって、みことばに聞き入」ることを怠ってはいないでしょうか。
私たちは、イエス様無しでは、何も成し遂げられないのです。ヨハ15:5。詩篇127:1。
この世の事柄から離れ、「主の足もと」に行き、主の臨在の中で語られる御言葉を聞き、
主の恵みと新しい力を受けて、再び世に出て行くのです。
語り掛けられた御言葉を心に留め、この世の枠に自分を当てはめるのでなく、
自分自身をその御言葉に当てはめ、合わせることが大切です。
時として、実行が難しい御言葉が語られることもあるかもしれません。
その御言葉に従うことは、大変な努力が必要かもしれません。
しかし、筋肉に負荷をかけることで、筋肉を大きくするように、
御言葉に自分を従わせる時に、「キリストに似た者」へと変えられていきます。
御言葉の枠の中に自分を押し込める時、キリストの形となるのです。
人々をキリストに引き付けるものは、イベントではなく人です。
すなわち、「キリストに似た者」となった一人一人のクリスチャンによってなのです。
初代教会では、人々を集めるような特別なイベントや活動はやっていませんでした。
それなのに、人々はイエス様の元に来て、信仰を持ち、救われていったのです。
自分がイエス様の元にいないのに、どうして人々をイエス様の元に導けるでしょう。
自分が御言葉に従っていないのに、どうして人々を御言葉に従うように導けるでしょうか。
マリヤのように、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入」る者となりましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師