18.8.12.
アサ王の次に南ユダ王国の王となったのは、アサの息子ヨシャパテでした。ヨシャパテも良い王となりました。
1.主が共におられたヨシャパテ王
ヨシャパテは、父アサの信仰にならい、主を求め礼拝し、主に従いました。17:3には、「主はヨシャパテとともにおられた」とあります。それは、「彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、その父の神に求め、その命令に従って歩み」(17:3-4)、北イスラエル王国の偶像礼拝を真似しなかったからです。また、ヨシャパテは「主の道にいよいよ励み、彼はさらに、高き所とアシェラ像をユダから取り除」(17:6)きました。そのため、主は、ヨシャパテの治世を「確立され」、「ユダの人々はみなヨシャパテに贈り物をささげた」ので、ヨシャパテには「富と誉れが豊かに与えられ」ました(17:5)。主を尊ぶ者は、尊ばれる者となり、主を軽んじる者は、軽んじられる者となるのです。Ⅰサムエル2:30。私たちの主に対する姿勢と態度が、そのまま自分自身に返って来るのです。
また、ヨシャパテは、自分が主を求め、主を礼拝し、主に従っただけではなく、南ユダ王国の全ての人々にも、御言葉を教え、主に従うようにと教えました。ヨシャパテは、「つかさ」(政府の高官)(17:7)を、「レビ人」(17:8)たちと「祭司」(17:8)たちと同行させて南ユダ王国の町々に遣わしました。それは、彼らが「主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教え」(17:9)るためでした。この「巡回する」には、「取り囲む」「包む」「包囲する」という意味もあります。ヨシャパテは、南ユダ王国を軍事力だけによってではなく、聖書教育によって取り囲み、南ユダ王国全体を主の教え、主の御言葉という霊的バリアによって包んだのです。その結果、「主の恐れが、ユダの回りの地のすべての王国に臨んだため、ヨシャパテに戦いをしかける者はだれも」(17:10)いませんでした。それどころか、イスラエルの敵であった「ペリシテ人の中から、ヨシャパテに贈り物とみつげの銀を携えて来る者があり」、「アラビヤ人」も非常に多くの羊や山羊の群れを贈りました(17:11)。こうして、ヨシャパテと南ユダ王国には、平和と繁栄が与えられました。
御言葉を学び、御言葉に聞き従うことが、私たちの霊的なバリアとなり、私たちをこの世の悪や誘惑、サタンからの攻撃から遠ざけ、守るものとなるのです。御言葉を覆いとする時、私たちに平和と繁栄が与えられるのです。詩篇1:2-3。箴言16:20。逆に、御言葉を疎かにする者は、悪や誘惑に負け、平和と祝福を失うのです。箴言13:13。「こうして、ヨシャパテはしだいに並はずれて強大に」(17:12)なっていき、「城塞や倉庫の町々」(17:12)を築き「エルサレムに…戦士たち」(17:13)を配置しました。
2.不信者に同調したヨシャパテ王
ヨシャパテにも弱さがあり、失敗してしまうことがあました。それは、北イスラエル王国の王「アハブと縁を結んだ」(18:1)ことです。ある時、ヨシャパテが北イスラエル王国の首都サマリヤにアハブを訪問すると、アハブの盛大なもてなしを受けましたが、そこにはアハブの下心があったのです(18:2)。アハブは、主に祝福されて富と権力と膨大な軍事力を持っていたヨシャパテを利用し、「ラモテ・ギルアデに攻め上らせ」(18:2)、ラモテ・ギルアデを奪還しようとしたのです。アハブの誘い(18:3)に対して、ヨシャパテは「私とあなたとは同じようなもの」(18:3)と言って、一緒に戦うことに簡単に応じてしまいました。
しかし、ヨシャパテは、主の御心を知るために、「まず、主のことばを伺ってみてください」(18:4)と尋ねました。すると、アハブは「四百人の預言者」(18:5)を呼び寄せました。しかし、その預言者たちは、「勝利する」と耳障りの良いことだけを語りました(18:5)。疑問を感じたヨシャパテは「主の預言者がほかにいないのですか」(18:6)と尋ねました。そこで、呼ばれて来たのがミカヤでした(18:7)。ミカヤは、使いの者に「良いことをのべて下さい」(18:12)と頼まれましたが、「神が告げられることを、そのまま述べよう」(18:17)と答え、この戦いではイスラエルが敗北し、アハブが戦死することを語りました(18:16)。これを聞いたアハブは怒り、ミカヤを「牢屋に入れ」(18:26)てしまったのです。
こうして、ヨシャパテはアハブと共に「ラモテ・ギルアデに攻め」(18:28)て行きました。その時、アハブは、ミカヤの預言で心配になったのか、自分は「変装」するが、ヨシャパテには「王服を着ていてください」と頼みました(18:29)。彼らが戦いに出ると、アラム軍はヨシャパテをアハブと思い、彼に追い迫って来ました。しかし、ヨシャパテが「助けを叫び求め」ると、「主は彼を助けられ」ました(18:31)。「ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」(18:33)ため、その傷のため、アハブは死んでしまいました(18:34)。神から隠れることなど出来ず、神の裁きから逃げることなど出来ないのです。
「ヨシャパテは無事に自分の家に帰り、エルサレムに」(19:1)戻りましたが、預言者エフーが来て、ヨシャパテを責めました。「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。」(19:2) ヨシャパテは、偶像礼拝者であったアハブと同調してはならなかったのです。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14) 不信者に同調した行動をとってしまうなら、不必要な戦いに巻き込まれてしまいます。ローマ12:2には、「この世と調子を合わせてはいけません」とあります。
ヨシャパテは、不信者に同調してしまうという欠点がありました。しかし、「心を定めて常に神を求めて」(19:3)来たという良い点がありました。ヨシャパテは、生涯を通じて、主を求め、主を礼拝し、主に従う者であり、それが神から評価されたことであったのです。私たちも、主だけを求め、主だけを礼拝し、主だけに従い、主だけに信頼しましょう。
Filed under: 主を求め礼拝した王たち • 伊藤正登牧師