士師13-16章

25.3.16.
サムソンは、主の霊によって大きな力が与えられていた。しかし、やがてサムソンはその力を失ってしまう。サムソンに何があったのか。私たちは何を学ぶことが出来るのか。
1.誘惑に乗って力を失ったサムソン
サムソンは、ナジル人として、3つの誓いを守らなければならなかった。しかし、サムソンは放縦(勝手気まま)な性格で、それらの誓いを破ってしまった。死体に近づいたり、触れたりしてはならなかったが、自分が殺した獅子に近づき、獅子の体内にできた蜂蜜を取って食べてしまった(14:8-9)。また、ぶどう酒や強い酒を断たなければならなかったが、ペリシテ人の女との婚宴の席でぶどう酒を飲んだ可能性がある(14:10)。そして、頭にかみそりを当ててはならなかったが、髪の毛を切り取られてしまった。
なぜ、サムソンは、ナジル人の大切なしるしである髪の毛を失ってしまったのか。サムソンは、デリラというペリシテ人の女に心を奪われてしまった(16:4)。ペリシテ人たちは、デリラがサムソンに愛されていることを知って、彼女にサムソンの力の秘密を聞き出すようにと言った(16:5)。その時から、デリラは、サムソンに彼の力の秘密を聞き出そうとした(16:6)。初めのうちは、サムソンは、本当のことを明かさずに、適当に答えていました。デリラは、サムソンが本当のことを明かさないことを責め、毎日、サムソンに本当のことを明かすように迫り続けた(16:15-16) そして、ついにサムソンは、自分の力の秘密を明かしてしまった(16:17)。サムソンは、デリラの膝の上で眠っている間に、髪の毛を切られてしまい、サムソンからは、力は失われてしまった(16:19)。サムソンは、目覚めた時、いつものように力を奮おうとしたが、「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」(16:20)。
2.誘惑を乗り越えるために
サムソンが力を失ってしまったのは、サムソンがデリラを愛するようになったから。「デリラ」という名は、へブル語の「弱くする」という動詞から派生した。また、アラビア語では、「誘惑する女」という意味もあると言われている。デリラは、その名の通り、サムソンを誘惑し、弱くしてしまった。しかし、デリラがサムソンを誘惑したと言うよりも、サムソンが自分からデリラを愛し、求め、デリラに心をささげてしまったのであった。サムソンの問題点は、この世の誘惑に乗ってしまったということ。この世には、私たちの心を惹き付け、心を捕らえてしまう魅力的なものがあるが、聖書は「世をも、世にあるものをも、愛してはいけません」と警告している(Ⅰヨハ2:15-17)。では、誘惑に乗らず、誘惑を乗り越えるためには、どうしたらよいのか。
① 誘惑するものから離れる(逃げる)
誘惑と戦えば戦うほど、その思いに捕らわれ、誘惑が強まり、やがて支配されてしまう。自分がしたくないと思っていることに、かえって思いが集中してしまうことになるから。だから、誘惑と戦うよりも、思いを他のものに向ける方がより効果的。他のものに関心や興味が移ってしまうと、その誘惑は力を失っていく。誘惑となるものを見ない、誘惑となることを聞かない、誘惑となる話に乗らない、誘惑となる場所にいない、誘惑となるものから逃げるということが効果的。誘惑に近づかない方が、誘惑から抜け出すよりも簡単。堕落というのは徐々に進行する。
サムソンの失敗も、徐々に進行していった。サムソンは、早いうちにデリラから離れ、誘惑を断ち切らなければならなかった。デリラと共にいながら、デリラの誘惑から解放されることはない。誘惑され易い状況に身を置いてはならない。そのような場面は避ける。誘惑の場から立ち去ること、誘惑の場から逃げ出すことが重要。
② 神を求め神との関係の中に生きる
サムソンは、神を求めるよりも、デリラを求めてしまった。サムソンは、デリラの愛を自分に繋ぎ止めておこうとして、神との約束、神との関係を軽んじてしまった。サムソンは、神との関係よりも、デリラとの関係を優先した。サムソンは、神との約束を重んじ、神を求め、神との関係の中で歩むべきであった。サムソンは、それは、自分の肉の欲を満たし、肉に従って歩むのではなく、聖霊に満たされ、御霊に従って生きなければならなかった。サムソンが、聖霊に満たされ、御霊に従って生きていたら、デリラに心を奪われることも、ナジル人の誓いを破ることもなかっただろう。
私たちも、聖別された者として、自分の肉を満足させ、肉に従って歩むのではなく、聖霊に満たされ、御霊に従って生きる者とならなければならない(ガラ5:16,25)。日頃から、心を主に向け、主を求め、主の臨在に満たされていることが大切。イエスは「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタ26:41)と言った。
敵である悪魔は、私たちが神に選ばれ、聖別され、神にささげられた者であり、私たちには聖霊の注ぎと力が与えられていることをよく知っている。また、私たちが悪魔の王国を揺り動かす存在であることを知って、恐れをなしている。だから、敵は、ペリシテ人がサムソンの力を奪い、無力にしたいと願ったように、私たちからも力を奪い取ろうと隙をうかがっている。Cf.Ⅰペテ5:8。
私たちは、神に選ばれ、聖別され、神にささげられた者であり、私たちには聖霊の注ぎと力が与えられている。その力を失うことなく、人々をキリストの救いへと導くために、さらに聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩んでいこう。
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