17.7.16.
主は良いお方
詩篇106:1
この「主はまことにいつくしみ深い」の「いつくしみ深い」は、
ヘブル語では「トーヴ」となっています。その意味は「良い」という意味です。
ですから、英語の聖書でも、「いつくしみ深い」は、「good」となっています。
つまり、「Give thanks to the LORD, for he is good」です。
日本語にするなら、「主は良いお方である」となります。
1.神様は災いを喜ばれない
イエス様を信じてクリスチャンとなり、御言葉に従って歩んでいても、
辛いところや悲しいところを通ることがあります。
自分に何か原因がある場合は、その苦しみを納得することが出来るでしょう。
それは、神様からの裁きではなく、当然の報いです(ガラ6:7)。
しかし、問題は、自分に何の過ちもないのに、苦しみを経験するということです。
「なぜ、正しい者が苦しみを受けるのか」ということは、人類共通の大きな問題です。
ヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかって」(ヨブ1:1)いました。
しかし、ある日突然、不幸がヨブを襲いました。
そこで、ヨブを慰めるために、3人の友人たちがヨブを訪ねて来ました。
彼らの主張は、「神様は正しい者には決して災いを与えることはなく、
人が災いを受けるのは、神様の裁きによるもので、罪の結果である」というものでした。
このように、「災いは神様の裁きであり、罪の結果である」という考え方は、
神様について「罰を与える神様」という悪いイメージを与えてしまいます。
しかし、それは、イエス様が示す神様のイメージとはかけ離れたものです。
イエス様は、災いは神様の裁きや罪の結果でないと否定しました。ヨハ9:1-3。ルカ13:1-5。
ヨブ記においても、3人の友人の「罰を与える神様」という考えは、否定されています。
彼らは、神様について「真実」を語っていませんでした(ヨブ42:7,8)。
神様は、災いをもたらすこともなく、罪人が滅びることも喜びません。詩5:4。エゼ18:23。
2.神様は全てをご存知で全てが出来る
「なぜ、正しい者が苦しみを受けるのか」という問いかけに対する、ヨブ記の答えは、
「分からない」です。結局、それは、人間には「分からない」ということなのです。
しかし、もう一つ大切なことがヨブ記で語られています。
それは、「神様は全てをご存知であり、全てがお出来になる」ということです。ヨブ42:2。
私たちには分かりませんが、神様には何かご計画があるのです。
そして、その計画は、災いの計画ではなく、良い計画です。エレ29:11。
また、神様は、どのような災いも益となるように造り変えることが出来るのです。ロマ8:28。
イエス様は、「生まれつきの盲人」についても、
「神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハ9:3)と言われました。
創37~50章には、有名なヨセフの生涯が記されています。
ヨセフは、兄たちから妬まれ、憎まれ、半殺しにされ、エジプトに売られてしまいました。
また、ヨセフは、ポティファルの家で奴隷として仕えていましたが、
ポティファルの妻から無実の罪を着せられ、牢屋に投げ込まれてしました。
ヨセフは、牢屋に一緒に入っていた献杓官が牢屋から解放されるという夢を解き明かし、
その夢が実現したら、ヨセフが牢屋から出られるように計らってほしいと願っていました。
ところが、献杓官は、ヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。
その2年後、ヨセフは、パロの夢を解き明かし、エジプトを飢饉から救い、
ヨセフの家族をも飢饉から救うことが出来ました。
その時、ヨセフは、これまでの苦しみの意味を理解出来ました。創世45:5,7,8、50:20。
3.神様の正しさを認める
ヨブには一つの問題点がありました。それは自分を「正しい」としていたことです。
始めのうち、ヨブもへりくだり、「罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」(1:22)のですが、
やがてヨブは、心を頑なにして、自分の正しさを主張し始めました。
ヨブは、「自分は神様を恐れて、悪から遠ざかり、正しく生きているのに、
どうして神様は、自分に災いが来ることを許されたのか」と主張したのです。
結局、これは、「自分を正しいとし、神様を悪としている」ということです。
私たちにとって大切なことは、自分を義とすることではなく、神様を義とすることです。
絶対に正しいお方は、神様だけです。私たち人間ではありません。
すなわち、神様は正しいお方であり、神様の正しい御心が成されているということを認め、
神様を信頼し、神様に全てを委ねるということが大切なのです。
人生には、理解出来ないこと、受け入れられないことも起こるでしょう。
しかし、神様が全てをご存知で、全てを益に造り変えることが出来ると信じるのです。
神様が私たちを愛しておられ、良いお方であることを信じるのです。
ヨセフは、兄たちに対する怒りに燃えて、兄たちを恨んでも不思議ではありませんでした。
「主よ、なぜですか」と、神様に不平を言うことも出来ました。
誰かに怒りをぶつけたり、自分の境遇を嘆いたり、投げやりになることも出来ました。
しかし、そのようなことは、聖書には何一つ記されていません。
ヨセフは、どのような状況になっても、誠実であり続けることが出来ました。
それは、ヨセフが、神様の正しさを認め、神様を信頼していたからではないでしょうか。
主が良いお方であることが理解出来るようになると、
主に感謝をささげ、賛美をささげることが出来るようになります。
その結果として、さらに心に喜びが湧き上がり、
さらに感謝と賛美を主にささげるようになります。
聖書は、「主に感謝せよ」と命じています。それは、主が良いお方だからです。
今、起こっていることは、私たちには、まだ理解出来ないかもしれませんが、
主の完璧な計画の一部であり、私たちに平安と希望を与える良い計画の一部なのです。
主は、私たちのために、全てを働かせて、益として下さいます。
困難な状況や問題に目を向けるのではなく、良いお方である主に目を向けましょう。
そして、どんな時にも、主に感謝をささげ、主を賛美しましょう。主は良いお方です。
Filed under: 伊藤正登牧師