18.11.4.

ヒゼキヤは、先祖ダビデのように「主の目にかなうこと」(29:2)を行いました。しかし、ヒゼキヤの父アハズは、積極的に偶像礼拝を行った悪い王でした。アハズは、「神の宮の器具」(28:24)を処分し、「主の宮の戸を閉じ」(24)てしまいました。また、町々に異教の神々の祭壇を築き(24-25)、「主の怒り」(25)を引き起こしたのです。そのため、南ユダ王国は、主の祝福を失い、衰退してしまいました。そこで、アハズの次に王となったヒゼキヤは、衰退してしまった南ユダ王国を立て直そうとしました。

1.神殿礼拝の回復

まず、ヒゼキヤが取り組んだことは、真の神への礼拝の回復でした。すなわち、南ユダ王国の人々の心を主に向けさせ、主を求めさせることでした(29:6-8)。ヒゼキヤは、南ユダ王国が近隣民族から攻撃され、人々が連れ去られてしまったのは、父たちが「主の目にかなうこと」を行わなかったことが原因であると理解していました。
そこで、ヒゼキヤは、まず閉じられていた「主の宮の戸を開き、これを修理」(3)しました。
次に、ヒゼキヤは、「レビ人たち」(5)を聖別して任命し、神殿から偶像を除き去り、神殿をきよめさせました(5)。更に、ヒゼキヤは、レビ人を賛美奉仕者として立て、楽器を手渡ししまた(25-26)。祭壇に「全焼のいけにえ」がささげられると、楽器の奏楽と共に賛美がささげられ(27)、「全焼のいけにえ」を「ささげ終わると」、「ひざをかがめ、伏し拝んだ」のです(29)。
今日、私たちが「神の神殿」(Ⅰコリント3:16)、「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)です。神殿とは、主を礼拝する場所であり、私たちは主を礼拝する者として召されています。しかし、アハズが神殿の扉を閉ざしたように、主に対して心を閉ざし、私たちの内に偶像を置いてしまい、主への礼拝が疎かになってはいないでしょうか。偶像とは、人を惹き付けるもの、熱狂させるもの、また憧れの対象となるものです。金、仕事、物、趣味、恋人や友人、学歴や名誉など、神よりも大切なものとなってしまっているなら、それは偶像です。心に偶像があるまま、祝福を願っても、祝福は与えられません。ヒゼキヤのように、偶像を捨て去り、「神の神殿」、「聖霊の宮」として主を賛美し、主に礼拝をささげましょう。

2.過越しの祭りの回復

次に、ヒゼキヤがしたことは、過越しの祭りを復活させることでした。過越しの祭りは、主がイスラエルの民をエジプトから解放して下さったことを記念して行う祭りです(出エジプト12章)。主は、イスラエルの民をエジプトから救い出すために、10の災いを起こされました。その10番目の災いは、人間も家畜も全ての「初子」(11:5)が死ぬというものでした。しかし、「傷のない一歳の雄」の「羊」(12:5)の「血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに」(7)に塗るなら、主はその家を「過ぎ越され」(23)、その家の初子は死ぬことはありませんでした。このほふられた羊は、「過越しのいけにえ」(11)と呼ばれました。
しかし、王国が南北に分裂して以来ずっと、過越しの祭りは忘れられていました。そこで、「ヒゼキヤは全イスラエルとユダに」、使者たちを遣わし、「過越しのいけにえをささけるよう呼びかけた」(30:1)のです。使者たちは、人々に主に立ち返るようにと呼びかけました(8-9)。過越しの祭りは、ユダヤ人たちにとって、信仰の原点である主に帰るということでもありました。人々は、「大きな喜びをもって」(21)、過越しの祭りを祝いました。こうして、「エルサレムには大きな喜びが」(26)ありました。そして、祭司たちの祝福の祈りは、「主の聖なる御住まい、天に届」(27)いたのです。
今日、私たちにとって過越しの祭りは、「聖餐式」です。私たちは、聖餐式で、イエスが私たちを罪から救うために、「過越しのいけにえ」となって、十字架にかかり死んで下さったことを覚えるのです。つまり、聖餐式は、私たちの信仰の原点である神の愛に帰るということなのです。

3.十分の一のささげものの回復

更にヒゼキヤは「エルサレムに住む民に、祭司とレビ人の分を与えるように命じ」(31:4)ました。それは、「祭司とレビ人が主の律法に専念するため」(31:4)でした。祭司やレビ人たちの生活は、イスラエルの人々のささげものによって、支えられることが定められていました(民数18:8-14,21-24)。しかし、それが成されていなかったため、祭司やレビ人たちは十分な奉仕が出来ませんでした。そして、それは結果として、人々の信仰の低下と、主の祝福の欠如につながりました。
そこで、ヒゼキヤは、十分の一のささげものを回復しようとしたのです。ヒゼキヤの呼び掛けに応じた北イスラエル王国と南ユダ王国の人々は、収穫した作物や家畜の「十分の一」(5-6)を豊かにささげました。それは、山のように積まれました(7-9)。十分の一のささげものについては、マラキ3:8-11に記されています。聖書は、私たちに与えられている収入の十分の一は、主のものであると教えています。ですから、収入の十分の一は、主にお返ししなければならないのです。もし、十分の一をお返ししないのであれば、それは主のものを盗んだということです。そして、主のものを盗んだままで、主に祝福を求めても、祝福は与えられません。しかし、私たちが十分の一を主にお返しする時、「天の窓」が開かれ、「あふれるばかりの祝福」が注がれるのです(マラキ3:19)。
十分の一のささげものをするということは、主に対する愛と信頼がなければ出来ません。ですから、十分の一のささげものは、私たちの信仰のバロメーターとも言われています。

こうして、ヒゼキヤは、人々の信仰を立て直す事業を成し遂げました (20-21)。今、私たちの信仰は、どのような状態にあるでしょうか。私たちもヒゼキヤのように、主への礼拝を回復させ、心から主を礼拝し、信仰の原点である初めの神の愛に立ち返り、十分の一を主にささげしましょう。私たちの信仰を立て直しましょう。