主を待ち望み新たな力を得る
イザヤ40:28-31
21.6.20.
若者であっても、どんなに強い人でも、疲れることがあります。しかし、「主を待ち望む」時、「新しく力を得」ることが出来るのです。「待ち望む」というヘブル語には、「待つ」という意味以外に、「信頼する、期待する」という意味があります。今日は、「主を待ち望む」ということについて学びましょう。
1.主の霊に満たされることを求める
私たち人間は、神に「似せて」造られました(創1:26-27)。それは、人間が神との人格的な交わりを持つようになるためです。また人間は、「いのちの息が吹き込まれ」、「生きるもの」となりました(創2:7)。「いのちの息」とは、「神の霊」すなわち「聖霊」のことです。つまり、人間の内に神の霊が注がれて、命が与えられたということです。人間は、神との交わりを持ち、神の霊が注がれる時、生きる力が与えられるのです。逆に、神との交わりが断たれ、神の霊が絶たれる時、命すなわち生きる力を失ってしまうのです。それは「霊的な死」を意味します。
最初の人間アダムとエバは、神の言葉に背き、神に対し罪を犯してしまいました。その結果、人間は神との交わりが断たれ、神の霊が絶たれ、霊的命を失ってしまいました。しかし、神は、人間との交わりを回復し、人間にご自身の霊を注ぎ、命を与えるために、御子イエス・キリストを遣わして下さいました。イエスは、私たちの罪を身代わりに負って、十字架にかかって死んで下さいました。イエスを信じる時、罪は赦され、神との交わりが回復し、神の霊が与えられるのです。
しかし、私たちは、絶えず神の霊に満たされていなければ、霊的命すなわち生きる力が絶えてしまうのです。ちょうど、植物に絶えず水を与えなければ、枯れてしまうのと同じです。ですから、私たちは、絶えず神である主との交わりを求め、神の霊である聖霊の満たしを求めていかなければならないのです。私たちは、主との交わり、主の霊に満たされる時を持たなくてはなりません。それは、自然に放っておいて出来ることではありません。出来る時に主との交わりを持つという考えでは、なかなか実行出来ません。自分の意志を傾けて、時間を割いたり、自分のしたいことを脇に置いたりと、犠牲を払わなければならないこともあるのです。
マリヤは、イエスの足元でイエスとの交わりをもちました(ルカ10:38-42)。イエスご自身も、父なる神との親しい交わりの時を持っていました。主と交わり、聖霊に満たされる時、霊的な命、力が与えられるのです。ヨハ6:63。Ⅱコリ3:6。
2.主がどのようなお方か覚えて主に信頼する
イザヤは、イスラエルの人々に神について問いかけました。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。」(イザ40:28) この時、イスラエルの人々は神に対して失望してしまっていました。それでイザヤは、イスラエルの人々に神について思い起こさせました。「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」(イザ40:28) 神は、万物の創造者、永遠なるお方、全地全能なるお方です。私たちも、神がどのようなお方であるのか思い起こさなければなりません。
詩46:10 には、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」とあります。この「やめよ」は「静まれ」という意味で、英語(NKJ)では「Be still」と訳されています。また他の英訳(TEV)では「Stop fighting」(戦いを止めよ)となっています。私たちの人生や日々の生活には、様々な問題があります。経済的問題、健康の問題、人間関係の問題、仕事上の問題、家庭の問題etc…。これらの問題のために、どうしたらいいかと思い煩い、心の中に戦いが生じます。問題だけに心が囚われてしまうと、それがストレスとなり、心も体も病んでしまいます。ですから、問題だけに囚われるのを止め、主を見上げるのです。問題について思い巡らすのではなく、神について思い巡らすのです。問題がどんなに大きいかということではなく、神がどんなに大いなるお方であるかということを考えなくてはなりません。
ダビデは、目の前の山を見るのではなく、山を造られた神を見ると言いました(詩121:1-2)。また、パウロは「イエスから目を離さないでいなさい」(ヘブ12:2)と言いました。神は、この世界を造られた創造者、全地全能なるお方、神に不可能はありません。神は、あなたの必要を満たされるお方、あなたのために戦い勝利を与えて下さるお方、あなたのために全てのことを働かせて益として下さるお方です。神に信頼する時、信仰は引き上げられ、強められ、新たな力を得ることが出来るのです。
鷲は、翼をバタつかせて飛ぶのではありません。じっと風の流れを待っています。そして、気流が来たら、自分の翼を広げ、上昇気流に乗って一気に空高く舞い上がります。そして、大きな翼を広げて、悠々といつまでも、どこまでも飛び続けることが出来ます。自分の力で高く上ろうと、バタバタと翼をはばたかせても、すぐに疲れ果ててしまいます。自分の力で、人生を、信仰生活を送ろうと頑張っても、力尽きてしまいます。聖霊に身を任せて、聖霊の力によって歩むなら、疲れることはありません。聖霊の風、聖霊の上昇気流を待ち望むのです。聖霊によって、新たな力が与えられます。
また、自分自身を思い煩いという鳥籠の中に閉じ込めてしまってはいないでしょうか。自分自身や自分の問題を見て、「もう無理、ダメだ、出来ない」と否定的になり、何も出来ずに、立ち止まってしまっていないでしょうか。その鳥籠から出て、偉大な神の御手の中に飛び込んでいきましょう。自分の小ささや、問題の大きさを見るのではなく、神の偉大さに目を向けるのです。
主を待ち望み、新しい力を得て、羽ばたいていきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師