17.9.10.

互いに足を洗い合う

ヨハネ13:1-15

イエス様は、最後の晩餐の席で、弟子たち一人一人の足を洗われました。
イエス様は、このことを通して、私たちに何を教えようとされたのでしょう。

1.愛は仕えることで現わされる

この後、イエス様は、十字架にかかり死なれ、復活した後、天に帰ろうとしていました。
その別れの前に、イエス様は、弟子たちにご自身の愛を表したいと願われたのです。
弟子たちは、人間的に見て、決して立派な人たちではありませんでした。
この後、イエス様が捕らえられると、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。
ペテロは、イエス様を知らないと3度も否定してしまいます。
弟子たちの中には、イスカリオテのユダもいました。
彼の心は、悪魔に支配され、イエス様を裏切って、ユダヤ人に売り渡そうとしていました。
イエス様は、全てをご存知でしたが、それでも弟子たちを心から愛されたのです。
イエス様は、どのような方法で、愛を示されたのでしょうか。
それは、へりくだり、「しもべ」となって、「仕える」ことによってです。
「夕食の席」で、イエス様は「上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれ」ました。
そして、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、・・・手ぬぐいで、ふき始められた」のです。
その時、弟子たちは、誰も「しもべ」となって足を洗おうとする者はいませんでした。
むしろ、弟子たちは、誰が一番偉いかということを議論していました。マルコ9:34
そして、実際に、自分をイエス様の次の位にして欲しいと頼んだのです。マタイ20:20,21
その時、イエス様は、「みなに仕える者になりなさい」、「しもべになりなさい」、
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
・・・自分のいのちを与えるためであるのと同じです」言われました。マタイ20:26-28
その言葉の通り、イエス様は、へりくだり、「仕える者」、「しもべ」となられたのです。
イエス様は、「しもべ」となって「仕える」ことによって愛を示されました。
愛は、「しもべ」となって「仕える」ことによって現されるのです。

2.互いに仕えることは主に仕えること

イエス様は、弟子たちにご自分の愛を示されましたが、
それはまた、彼らに対する「模範」(14,15)でもあったのです。
このイエス様の言葉を文字通りに受け取って、実際に足を洗い合うこともあります。
しかし、ここで強調されていることは、「互いに仕え合う」ということです。
私たちが救われた目的は、「良い行いをするため」(エペソ2:10)であると聖書は教えています。
それは、「奉仕」とか「仕えること」です。
私たちはクリスチャンはみな、救われた時に、「仕える者」に召されたのです。
「仕える」ということを考える時、まず「神様に仕える」ということを考えるでしょう。
たとえば、「賛美と礼拝をする」、「祈る」、「献金する」、「奉仕する」等が挙げられます。
しかし、「仕える」ということは、単に「神様に仕える」ということだけではありません。
主にある兄弟姉妹たちに「仕える」ということも大切です。
「神様に仕える」ことと、「兄弟姉妹に仕える」ことは、同じ位大切なことなのです。
イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
という戒めは「第一の戒め」であるけれども、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
という「第二の戒めも、それと同じように大切です」と言われました。マタイ22:37-39
兄弟姉妹を愛することが、神様を愛すること同じ位大切なように(Ⅰヨハネ3:14)、
兄弟姉妹に仕えるということも、神様に仕えることと同じ位大切なのです。
さらに、神様に仕えることは、兄弟姉妹に仕えることを通して現されるのです。
イエス様は、「羊と山羊」の例え話の中で、王の言葉として、次のように言われました。
マタイ25:40。・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

3.交わりの中で仕え合う

仕え合うことは、小さな交わりの中で行われます。
イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、
男だけで5千人以上の人々を満腹させるという奇跡を行われました。
どのように、大勢の人々にパンと魚を行き渡らせたかは、
聖書には、具体的なことは書いてありませんが、
「五十人ぐらいずつ組にして」(ルカ9:14)座らせたとあります。
イエス様は、群衆を幾つかの小さなグループに分けたのです。
そして、イエス様は、弟子たちにパンと魚を分け与え、
弟子たちがそれぞれのグループにパンと魚を配り、
さらに、そのグループの中で、パンと魚が分け合われました。
それぞれのグループは、交わりのグループだったのです。
「交わり」は、ギリシャ語で「コイノニア」で、「共有する、分かち合う」ということです。
文字通り、ここでは、パンと魚(共にイエス様の象徴)が分かち合われたのです。
そして、それぞれの小さな交わりのグループの中で、
互いに助け合い、仕え合うことがなされていたのです。
交わりの中では、主の恵みが分かち合われます。
主がどんなに素晴らしい恵みを与えて下さったかを分かち合われます。
また、それぞれが抱えている問題や重荷を共に分かち合うのです。
このように、交わりの中で、主の恵みを分かち合い、お互いの重荷を負い合い、
互いに祈り合い、励まし合い、教え合い、戒め合い、仕え合うのです。ローマ15:1-3

神様は、私たちが交わりから孤立して、
一人だけで信仰生活を送るようにとは願っておられません。
交わりの中で、互いに仕え合うことを望んでおられます。それが足を洗い合うことです。
交わりの中で、互いに仕え合う目的は、私たちが霊的に成長して、
「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:13)。
イエス様がへりくだって、「しもべ」となって、弟子たちの足を洗ったように、
私たちも互いの足を洗い合う者、すなわち「しもべ」となって仕え合う者となりましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師