冠を奪われないように(前)
黙示3:7-13
21.9.19.
アジアの7つの教会の6番目の教会は、「フィラデルフィア教会」です。
主はフィラデルフィヤ教会にどのようなことを語られたのでしょう。
1.聖なる真実なダビデのかぎを持っているキリスト(7)
キリストは、「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方」(7)です。「聖なる方、真実な方」という表現は、神ご自身を指す表現です(黙6:10)。
また、キリストは「ダビデのかぎ」を持っていて、「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」(7)と言われています。イザ22:22には、「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」とあります。南ユダ王国のヒゼキヤ王にダビデの子孫でもある「エルヤキム」という家来がいました。エルヤキムには、エルサレムの城門の鍵が渡されて、「彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者は」いませんでした。このエルヤキムは、キリストのひな型でした。キリストには、天と地の全ての権威が与えられているということです(マタ28:18)。
特に、この「ダビデのかぎ」とは、「永遠の御国に入る門の鍵」、「天国の鍵」です。キリストは、天国の門を開けたり閉じたりする権威を持っています。キリストは、信じる者には天国の門を開き、信じない者にはその門を閉ざします。キリストは、聖なる真実な神であり、人を天国に入らせる権威を持つお方です。
2.賞賛の言葉 : 主の言葉を守り、主の名を否まなかった(8)
主は、フィラデルフィア教会に「わたしは、あなたの行いを知っている」(8)と言われました。フィラデルフィア教会は、どのような「行い」をしていたのでしょうか。8節後半に「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と言われています。「少しばかりの力があって」とは、フィラデルフィア教会の信者たちの身分(地位)が低く、経済的な力もなく、社会的には影響力のない人々であったということです。
フィラデルフィアには、「サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たち」(9)がいました。フィラデルフィヤ教会は、この「サタンの会衆に属する者」、「自称」「ユダヤ人」から迫害されていたのです。主は、スミルナ教会にも「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている」(黙2:9)と言われました。この「サタンの会衆に属する」「自称」「ユダヤ人」とは、クリスチャンたちを迫害していたユダヤ教徒(ユダヤ教主義者)たちのことです。彼らは、クリスチャンを迫害することによって、神に仕えていると考えていましたが、実際には、神に敵対する「サタンの会衆」になってしまっていたのです。スミルナ教会は、「ユダヤ人だと自称している」者たち、「サタンの会衆である人たち」から、酷い言葉で悪口を言われ、声高に非難されていました。恐らく、フィラデルフィア教会の信者たちも、悪口を言われ、非難されていたのでしょう。
しかし、フィラデルフィア教会の信者たちは、どんなに酷い事を言われ迫害されても、主の「ことばを守り」、主の「名を否まなかった」のです。彼らは、スミルナ教会と同じ様に、迫害を耐え、信仰を守り通したのです。10節では、「わたしの忍耐について言ったことばを守った」とも言われています。イエスは、マタ10:22で、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と言われました。イエスは、どのように激しい迫害を受けても、最も親しい家族から迫害されても、「最後まで耐え忍ぶ」ようにと言われました。フィラデルフィア教会の信者たちは、どんなに迫害されても、どんな苦しみを受けても、主が「忍耐について言ったことばを守」り、「最後まで耐え忍」びました。彼らは、主の「ことばを守り」、主の「名を否まなかった」のです。主は、フィラデルフィア教会の信者たちのその「行いを知って」おられ、賞賛されたのです。
フィラデルフィア教会の信者たちは、身分も低く、財産も無く、社会的に影響力のない人々でした。彼らは、敵対者から酷い悪口を言われ、非難され、見下されていました。どれだけ傷つけられ、恥ずかしい思いをさせられることでしょう。しかし、フィラデルフィア教会の信者たちは、迫害を耐え忍び、信仰から離れることなく、主の御言葉を守り、主に対する信仰を守り通したのです。フィラデルフィヤ教会は、「少しばかりの力」であったとしても、信仰を貫き通す「忠実な教会」であったのです。主は、フィラデルフィヤ教会の忠実な信仰を称賛されました。
主が関心を持っておられることは、どれだけ力があるかとか、どれだけ大きいことが出来るかではなく、どれだけ忠実であるかということです。「少しばかりの力」であったとしても、忠実であることが大切なのです。私たちも、信仰の故に、悪口を言われ、非難され、見下され、傷つけられ、恥ずかしい思いをさせられることがあるかもしれません。どのような迫害や困難の中にあっても、耐え忍び、御言葉を守り、主に対する信仰を最後まで守り通しましょう。主は、私たちが信仰を貫き通す忠実な教会となることを望んでおられます。
Filed under: アジアの7つの教会へのメッセージ • 伊藤正登牧師