15.7.5.

収穫の働き手となろう

マタイ9:35-38

日本のクリスチャン人口は1%未満であると言われています。
ということは日本の99%以上の人たちは、生きる意味を見出せず、
何の希望も喜びもないまま、地獄へと向かっているのです。
この現実に対して私たちは何をしなければならないのでしょうか。

1.弱り果てている人々に対して心の痛みを感じる

イエス様は人々が集まって来るのを待っておられたのではなく、
ご自分から人々の所へと出向いて行かれました。
そして、イエス様は「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」人々を見て、
「かわいそうに思われた」のです。
「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」とは、
人生における様々な問題を抱えて困り果てていて、
誰からも助けてもらえず、不安で、どうしたらいいのか分からない状態です。
そして、「かわいそうに思われた」という言葉は、単に憐れまれたという以上に、
心に深い痛みを覚えたということです。
私たちはどれだけイエス様と同じ心の痛みを感じているでしょうか。
世の中には、人生で成功し、幸せそうに見える人がいるでしょう。
しかし、キリスト無しの人生は空しく、本当の喜びも希望もありません。
表面的には何の問題もないように見える人たちもいるかもしれませんが、
心が傷ついていたり、悩んでいたり、疲れ果ててしまっているのです。
それに対して、私たちは自分の必要、問題、生活、幸せだけが優先事項となり、
キリスト無しに滅びに向かっている人々を忘れてしまっていないでしょうか。
イエス様を知らずに死んでいく人々に対して無関心になってはいないでしょうか。
自分が恵まれること、自分が祝福されることだけを求める、
自己中心的なクリスチャンとなってしまってはいないでしょうか。
イエス様が「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」人々を見て、
心を痛められたように、私たちも人々に対する関心と憐れみの心を持ちましょう。

2.救われるべき人々が大勢いることを信じる

これまで様々な伝道が試みられてきましたが、
救われてクリスチャンとなる人々の数は少ないままです。
しかし、イエス様は「収穫は多い」と言われました。
すなわち、救われる人々が大勢いると言っておられるのです。
また、イエス様は次のようにも言われました。
ヨハネ4:35。あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある」と言ってはいませんか。
さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。
色づいて、刈り入れるばかりになっています。
また、パウロがコリントで福音を宣べ伝えていた時、
ユダヤ人たちからの反抗がありましたが、
神様は幻の中で、パウロにこのように語り掛けられました。
使徒18:9,10。「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。
この町には、わたしの民がたくさんいるから。」
イエス様は私たちにも「収穫は多い」、「色づいて、刈り入れるばかりになっています」、
「この町には、わたしの民がたくさんいる」と語っておられるのです。
たとえ日本のクリスチャン人口が1%未満であるとしても、
この日本にも、イエス・キリストを信じて、救われるべき人々が大勢いるのです。
目に見える現状がどうであっても、失望したり諦めたりせずに、
多くの人々が救われることを信じなければならないのです。

3.働き手が与えられるよう祈り、働き手として立ち上がる

イエス様は、少ないのは「収穫」ではなく、「働き手」であると言われました。
すなわち、福音を必要とし、救われることを待ち望んでいる人々は大勢いるのに、
人々に福音を伝え、イエス様の救いに導く「働き手が少ない」のです。
だからイエス様は「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われました。
興味深いことに、イエス様は「人々が救われるように祈りなさい」と言われたのではなく、
「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われたのです。
「働き手」さえいれば、人々は救いに導かれるからです。ローマ10:14
ですから、私たちは「働き手」が送られるように祈らなくてはなりません。
そして、この祈りの答えは、私たちが「働き手」として立ち上がる時に見られるのです。
私たち自身が「働き手を送ってくださるように」という祈りの答えなのです。
イエス様は私たち一人一人が収穫の働き人として立ち上がることを望んでおられます。
人々に福音を宣べ伝え、救いに導くための方法は色々とあるでしょう。
しかし、最も聖書的で、基本的で、効果的な方法は、一人一人のクリスチャンです。
私たちは方法を求めますが、神様は人を求めておられ、人こそ神様の方法です。
私たちクリスチャン一人一人が家庭、学校、職場、地域への「トラクト」なのです。
「クリスチャン」という名称は「キリストに似た者」という意味です。
自分が遣わされた場所の人々にイエス様を表すクリスチャンとなっているでしょうか。
イザヤのように自分を収穫の働き人として神様にささげましょう。
イザヤ6:8。私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

滅びに向かっている人々に対して、心に深い痛みを感じられる者となりましょう。
この日本でも大勢の人々が救いに導かれることを期待しましょう。
「働き手を送ってくださるように」祈り「働き手」として立ち上がりましょう。
一人一人のクリスチャンがこれらのことを行っていくなら、
クリスチャン人口1%未満という壁を打ち破っていくことが出来るのではないでしょうか。

Filed under: 伊藤正登牧師