16.7.17.

受けるより与える方が幸い

使徒20:35

パウロは、第三回伝道旅行の帰り道、「ミレト」に立ち寄った際(使徒20:15)、
エペソの教会の長老たちを呼び寄せてメッセージを語りました。使徒20:18-35
その中で、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(35)と語りました。
この「幸いである」という言葉は、「祝福されている」という意味の言葉です。
聖書は、本当に祝福された生き方は、「与えること」であると教えています。

1.この世の価値観で生きる限界

この世の中では、この御言葉と逆のことが考えられています。
多くの人々が「与えるよりも受ける方が幸いだ」と思っているのではないでしょうか。
世の中では、お金や物を豊かに持つことが幸せであると考えられています。
ですから、人々は、もっと幸せになれるように、お金や物をもっと得ようと生きています。
しかしたとえ、何かを得られたとしても、それはいつか失われてしまうものです。
また、何かを得ても、すぐに飽きてしまい、別のものが欲しくなります。
そして、決して満たされることがなく、常に空しさが残り、疲れ果ててしまうのです。
そのような人生は、物質的、経済的に恵まれていても、決して幸いな人生とは言えません。
むしろ、惨めな人生、とても不幸な人生と言えるでしょう。
神様は、私たちがそんな人生を歩んでほしいとは願っておられません。
神様は、私たちが真に幸いな人生を歩むことを望んでおられます。
私たちが真の幸いな人生を送るためには、
今までの価値観、考え方、そしてライフスタイルを改めなくてはなりません。
聖書は、この世のものとは正反対の価値観、考え方、ライフスタイルを教えています。
人を幸せにするのは、どれだけお金や物を豊かに所有しているかということではなく、
どれだけ分かち合うことが出来るかということによる、ということです。

2.与えることが幸いである理由

① 感謝と喜びが満ち溢れるようになる。

Ⅱコリント9:11,12。パウロは、コリント教会の異邦人クリスチャンたちの献金が
エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちの「必要を十分に満たす」だけでなく、
それによって「神への多くの感謝」が「満ちあふれるようになる」と言っています。
それはエルサレム教会にとっても、コリント教会にとっても、パウロにとっても、
大きな喜びであり、嬉しさであり、何ものにも換えがたい幸いなのです。
そして、与えること、分かち合うことは、神様が喜ばれることです。

② 自分自身が与えられるようになる

Ⅱコリント9:6,10。「種」を蒔くことによってさらに多くの「種」を収穫出来るように、
神様は分け与える人に、更に分け与える分と自分の受ける分を備えて下さいます。
与えるということは、失ってしまうことではなく、自分が与えられることになるのです。
この教えはイエス様ご自身が教えられた原則でした。ルカ6:38

③ 永遠の報いとなる

イエス様は、ルカ12:16-21で「愚かな金持ち」の例え話をされました。
彼は、人間的に見たら、彼は人生の成功者でした。
しかし、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」は「愚か者」なのです。
イエス様は、「朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」と教えられました。ルカ12:33
たとえ、この地上で報いられなくても、神様はそれに対する報いを用意して下さるのです。
私たちが天に帰った時、その報いを受け取ることが出来るのです。

3.神様の愛と恵みのゆえに与える者となる

私たちは、義務感や罪責感、あるいは恐れから分け与えるのではなく、
神様がして下さったことへの深い感謝をもって、喜んで仕えるのです。
ルカ19:1-10。「ザアカイは、「取税人のかしら」でした。
「取税人」は、罪人とみなされ忌み嫌われ、除け者にされていました。
また、ザアカイは、「背が低かった」ので、劣等感を持っていたかもしれません。
ザアカイは、この孤独感や劣等感を富によって埋め合わそうとしていたのかもしれません。
ザアカイは、「取税人のかしら」で社会的地位が高く、「金持ち」で経済的にも豊かでしたが、
いつも心は満たされず、幸せな人生を送ってはいなかったのでしょう。
しかし、イエス様は、そんなザアカイの名前を呼び、彼の家に入られたのです。
ザアカイは、イエス様の愛に触れて、全く別の人に変えられました。
彼は、自分のためにかき集め私服を肥やす人から、分け与える人に変えられたのです。
強制や義務、罪悪感や恐れからではなく、喜んで自発的にそうしたのです。
イエス様の愛と恵みに触れる時、仕える者となることを望むようになるのです。
どんなに神様が私たちを愛し、恵んで下さったかが分かると、
私たちの人生の焦点は、分け与えることへと移行していくのです。
私たちは、常に神様の愛と恵みという原点に立ち返らなくてはなりません。
イエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。マタイ10:8
もし、神様の愛と恵み、救いの喜びなしで仕えていくなら、やがて疲れ果ててしまいます。
そして、心の伴わない表面的、形式的、律法的な奉仕となってしまうのです。
ですから、常に「初めの愛」に帰らなければならないのです。黙示2:4,5

イエス様は「与えるために」来られました。マタイ20:28
イエス様を信じ、イエス様に倣う私たちも、イエス様の生き方に従いましょう。
今日、多くの人たちが自分の祝福しか求めていません。
しかし、私たちは、ただ単に何かを「得る」ために生かされているのではなく、
「与える」ためにこの地上に置かれているのです。
神様は、私たちが「与える人」になって欲しいと望んでおられます。
常に神様の愛と恵みという原点に立ち返りましょう。
「受けるよりも与えるほうが幸いである」のです。

Filed under: 伊藤正登牧師