16.10.09.

城壁を打ち破る

ヨシュア6:1-21

聖書は、エリコの町について、次のように言っています。
6:1。エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
エリコの町は、高くて堅固な城壁に囲まれた難攻不落の町でした。
イスラエルの民は、この難攻不落のエリコの町をどのように攻め落としたのでしょうか。

1.信仰によって一致する

神様は、ヨシュアにエリコの町への攻撃方法について教えられました。6:3-5
エリコの町の周りを1日1回6日間まわり、7日目は7回まわるようにという命令でした。
そして、7日目に町を7度まわった後、祭司たちが角笛を長く吹き鳴らした時に、
大声でときの声をあげると、エリコの城壁は崩れ落ちるというものでした。
それは、戦争としては、常識的にあり得ない方法、馬鹿げた方法でした。
ヨシュアは、イスラエルの民に行進中は一言も喋ってはならないと命じました。6:10
なぜなら、もし、イスラエルの民に自由に喋らせていたら、
不信仰な告白や不平不満を言うかもしれないからです。
イスラエルの民は、40年間の荒野の旅でも、不信仰な告白や不平不満を言っていました。
不信仰な告白や不平不満によって、イスラエルの民の信仰が揺らいでしまったら、
一致も乱れ、この作戦は失敗に終わってしまうでしょう。
だからは、ヨシュアは、イスラエルの民に一切喋ることを禁じたのです。
神様は、私たちが考えている方法とは違う方法に導かれることがあります。イザヤ55:8-9
私たちに理解出来ないため、疑ったり、不平不満を言ったりしたくなるかもしれません。
しかし、どんなに理解出来なくても、信じられないことでも、馬鹿らしく思えることでも、あり得ないことでも、信仰によって、神様が導かれた方法に従うことが大切なのです。
私たちは、人間的な思いに死んで、信仰によって神様の方法に従うべきです。
それぞれの教会には、それぞれのビジョン、使命、やり方というものが与えられています。
しかし、たとえそれが個人的に納得出来なくても、他にやりたい事や、
より良い方法と思える事があったとしても、疑わず、つぶやかずに、
信仰によって、その教会の流れ(コンテキスト)の中で事を行うことが大切です。ピリピ2:14
色々な事を言うことで、混乱や分裂が生じ、神様の働きが出来なくなってしまいます。
ヨシュアとイスラエルの民は、信仰によって、神様の方法に従い、黙々と行進しました。
すると、エリコの城壁が崩れたのです。それは信仰によることでした。ヘブル11:30
この作戦には、イスラエルの民の一致が求められました。
彼らは、各々ばらばらではなく、整然と一致して行進しなければなりませんでした。
祭司たちも、一致して角笛を吹き鳴らさなくてはなりませんでした。
また、「角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければな」りませんでした。
そして、城壁が崩れ落ちた時には、「民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、
その町を攻め取った」のです。そこにも一致が求められました。
そのために必要なのが、人間的な一致ではなく、信仰による一致だったのです。

2.主の臨在を中心とする

イスラエルの民の隊列の順番は、先頭が「武装した者たち」、次に「七人の祭司たち」、
そして「主の契約の箱」が続き、しんがりはまた「武装した者たち」でした。8-9
すなわち、イスラエルの民の隊列の中心にあったものは、「契約の箱」でした。
「契約の箱」とは、神様の臨在を現すものでした。
「契約の箱」が中心に配置されていたということは、
神様ご自身がイスラエルの真ん中におられたということです。
どんなに優れた知恵や能力があっても、どんなに最善な方法によって行っても、
どんなに豊かな富や権力を持っていたとしても、
神様が共におられ、神様が働かれるのでなければ、私たちは何も出来ないのです。
神様の臨在と働き無しに、どんなに人間的な努力も意味がないのです。詩篇127:1-2
また、イスラエルの民が、バビロン捕囚から70年後にユダヤに帰って来て、
エルサレムの破壊された神殿を建て直そうとした時、神様は、神殿再建の働きは、
人間の力ではなく、神様の力によるものであると語られました。ゼカリヤ4:6
私たちも、「契約の箱」を私たちの教会の中心に置かなくてはなりません。
それは、私たちが神様の臨在に満たされるということです。
そして、神様の臨在は、特に教会の礼拝において現わされるべきものです。
礼拝において、私たちは、心から神様を慕い求め、神様をほめたたえなければなりません。
私たちが神様を礼拝するのは、神様から何かをいただくためではありません。
神様が神様であるから、神様が礼拝を受けるのに相応しいお方だから礼拝するのです。
私たちは、神様の変わらないご性質のゆえに、神様を礼拝するのです。
また、私たちは、自分を楽しませるために礼拝をささげるのではなく、
神様に喜んでいただくために礼拝をささげるのです。
神様が私たちの礼拝を喜ばれる時、そこに神様は来られ、臨在されるのです。
私たちは、純粋に神様ご自身を求めているでしょうか。
私たちは、全ての源である神様を何よりも求めなくてはなりません。
そして、神様ご自身を求めるためには、私たちの内に飢え渇きが無くてはなりません。
Ⅱ歴代20:1~30。モアブ人とアモン人の連合軍が南ユダ王国に攻めて来た時、
ヨシャバテ王と南ユダ王国の人々は、神様の前に出て、神様を求めて祈りました。20:3-4,12
そして、ヨシャバテ王は、進軍する際に、
「賛美する者たち」を「武装した者たち」の前に立てて、神様を賛美させました(21)。
「彼らが喜びの声、賛美の声をあげた始めたとき」、神様ご自身が働いて下さったのです(22)。
神様の臨在の臨在のある所に、人知と人力を超えた神様の御業が現されるのです。

イスラエルの民の前にエリコの城壁は打ち崩され、その町は占領されました。
それは、イスラエルの民が強かったからではありません。
神様ご自身が先立って戦われたからです。
神様の方法によって、エリコの城壁は打ち砕かれ、町を占領されました。
私たちも自分の方法ではなく、信仰によって一致して、神様の方法に従いましょう。
また、神様ご自身を心から求め、神様の臨在に満たされていきましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師