20.4.26.

イエスが復活した後、ペテロは他の弟子たちと共にティベリヤ(ガリラヤ)湖に行きました。それは、イエスが弟子たちに「ガリラヤに行くように」、と言っていたからです(マタ28:10)。イエスと弟子たちとの再会場面から、イエスがどのような方であるか知ることが出来ます。

1.イエスは私たちの必要を知っている

ペテロが「私は漁に行く」と言うと、他の弟子たちも一緒に漁に行きました(3)。彼らは「小舟」(3)に乗り、一晩中漁をしましたが、「その夜は何もとれ」(3)ませんでした。この「夜」というのは、単に時間的な「夜」だけではなく、「光であるイエスの不在」を象徴的に表していると言えます。どんなに努力しても、主が共におられなければ、何も得ることも、成し遂げることも出来ないのです(詩127:1-2)。私たちは、主から離れては、「実を結ぶことはできません」(ヨハ15:4)。

「夜が明けそめたとき、イエスは岸部に立たれ」(4)ました。しかし、「弟子たちには、それがイエスであることが分か」(4)りませんでした。イエスは、弟子たちに「子どもたちよ。食べるものがありませんね」(5)と呼びかけました。イエスは、弟子たちが一晩中労苦したにも関わらず、何も得られず、心も体も疲れ果ててしまっていたことを知っていたのです。イエスは、ナタナエルが「いちじくの木の下にいる」(ヨハ1:48)ことを知っていました。イエスは結婚と離婚を何回も繰り返していたサマリヤの女を知っていました(ヨハ4:18)。イエスはエリコの取税人ザアカイを知っており、彼の家に泊まる予定でした(ルカ19:5)。同じように、主は、私たちのことも見ておられ、知っておられます。

何があっても「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命31:6)のです。そして、主は、私たちのそばに来て下さり、私たちにも呼び掛けておられます。弟子たちは、イエスの問いかけに「はい。ありません」(5)と答えました。私たちも、自分の弱さ、足りなさを素直に認めなければなりません。

2.イエスは新たなチャレンジを与える

イエスは弟子たちに「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」(6)と言いました。このイエスの言葉は、弟子たちにチャレンジを与える言葉でした。「チャレンジ」とは、「困難な問題や未経験のことなどに取り組むこと」です。ガリラヤ湖での漁は、普通は夜間に行われるものです。夜が明けてから、網を下しても、何も獲れるわけがありません。普通の考えでは、それは「やっても無駄なこと」でした。「舟の右側に網をおろしなさい」という命令は、弟子たちにとって、「新しいチャレンジ」となることでした。すなわち、「不漁」という「困難な問題」に取り組むこと、「明け方に漁をする」という「未経験のこと」に取り組むことでした。

人生には、様々な困難な問題が起こることがあります。そのような時、主は私たちにも「舟の右側に網をおろしなさい」と語っておられるのです。すなわち、諦めずに「困難な問題や未経験のことなどに取り組むように」と。なぜなら、困難な問題であったとしても、主が良いことに造り変えて下さるからです。人間的には「マイナスなこと」、「良くないこと」、「不利益なこと」と思えることでも、主は、それらを「プラスなこと」、「良いこと」、「利益なこと」に変えて下さるのです。聖書は、神が神を愛する者のために「災いを転じて福と為す」と言っています(ロマ8:28)。

「迫害」によって、「エルサレムの教会」は存続の危機に直面しました(使8:1)。しかし、「散らされた人たち」によって、福音宣教が拡大していったのです(使8:4)。神は、「迫害」という災難を福音宣教の拡大のために用いられたのです。人生で様々な困難な問題があったとしても、それを主から与えられた「新しいチャレンジ」として受け止めることが大切です。

3.イエスは全ての必要を満たす

弟子たちは、イエスに言われた通り、「網をおろし」(6)ました。「すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることが」(6)出来ないほどでした。その網は「百五十三匹の大きな魚でいっぱい」(11)であったと言われています。すると、「イエスの愛されたあの弟子」すなわちヨハネ自身が、その人がイエスであることに気づき、ペテロに「主です」(7)と語りかけました。ヨハネは、イエスが行われた大漁の奇跡を思い起こしたのかもしれません(ルカ5:1-11)。その時も、弟子たちは、一晩中漁をしましたが、「何一つとれませんでした」(5)。イエスは、弟子たちに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(4)と言いました。ペテロが「おことばどおり、網をおろしてみましょう」(5)と答え、「そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった」(6)のです。

弟子たちが「陸地」に上がると、「そこに炭火とその上に乗せた魚と、パンが」ありました(9)。イエスご自身が一晩中の漁で空腹となった弟子たちのために朝食を用意していたのです。そして、イエスは「さあ来て、朝の食事をしなさい」(12)と言って弟子たちを招きました。そして、イエスは「パン」と「魚」を弟子たちに分け与えたのです(13)。このことは、「5つのパンと2匹の魚の奇跡」(ヨハ6:1-14)を思い起こさせます。イエスは、5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人々の空腹を満たされたのです。

この大漁の奇跡で大切なことは、「舟の右側」でもなく、破れなかった「網」でもなく、「百五十三匹の大きな魚」でもなく、イエスに気づいたヨハネでもありません。大漁を与えて下さったイエスが大切なのであり、すなわち、イエスは、私たちの全ての必要を満たして下さ方であるということです。主は、私たちの霊的、精神的な必要ばかりではなく、私たちの肉体的、物質的な全ての必要を満たして下さいます(ピリ4:19)。

 

この大漁の奇跡で大切なことは、弟子たちがイエスの言葉に従ったということです。人間的に考えて無駄な努力、不可能なことと思われることであっても、主の言葉に従う時に奇跡が起こるのです。主の言葉に耳を傾け、従っていきましょう。

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