16.6.5.
宣教の情熱
ローマ1:14-16
福音宣教は、使徒1:8にある通り、「エルサレム」から始まり、「ユダヤとサマリヤの全土」、
さらに「地の果て」すなわち全世界に広まっていきました。
そして、その福音宣教に大きく貢献したのが、パウロです。
1.パウロの情熱
パウロは、福音宣教に情熱をもって取り組みました。
パウロはローマ1:14-15で、福音宣教への思いを「返さなければならない負債」と表現し、
福音宣教はどうしてもやらなければならないことであると言っています。
そして、「ぜひ福音を伝えたいのです」と言っています。
また、Ⅰコリント9:16では、福音宣教は、「どうしても、しなければならないこと」であり、
「もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ」とも言っています。
パウロは、福音宣教のために、自分の命をかけていました。使徒20:24。
パウロがこれほどまでに福音を宣べ伝えることに情熱を持っていたのは、
単にイエス様の命令だからというだけではありません。
彼は、どうしても福音を宣べ伝えなければならない必要性・緊急性を感じていたのです。
なぜなら、イエス・キリスト以外に救いはないからです。使徒4:12。
世の人々は、表面的には何の問題もないように見えるかもしれませんが、
心が傷ついていたり、問題をかかえて悩んでいたりして、救いを必要としているのです。
神様無しの人生は空しく、本当の喜びも満足も希望もありません。
彼らは、神様から離れ、何の喜びも望みもなく、空しく人生を送っています。
そして、最後には、みな永遠の滅び(地獄)へと落ちてしまうのです。
ですから、全ての人が、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて、
真の神様の元に立ち返らなければならないのです。
このイエス・キリストの福音こそが、人々を救いへと導くものなのです。ローマ1:16。
それゆえに、パウロは、どんなに困難や迫害があっても、福音を宣べ伝え続けました。
2.ローマへの思い
パウロがこの「ローマ人への手紙」を書いたのは、56年頃で、
第3回伝道旅行でコリントに滞在している時でした。
パウロは、当時の世界の中心地であるローマにも教会があるということを聞いて、
ぜひローマに行って福音を宣べ伝えたいと願ったのです。ローマ1:15。
そこで、パウロは、イスパニヤ(スペイン)へ行くという計画を立て、
その途中でローマに立ち寄ることを考えていました(ローマ15:23)。
パウロは、常にローマに思いを向けていたのです。
その後、エルサレムに戻って来たパウロは、ユダヤ人たちに訴えられ、
裁判にかけられることとなり、カイザリヤへと護送されました。
その際、パウロはローマ皇帝「カイザルに上訴」(使徒25:11)したため、
ローマのカイザルの元へと送られることとなったのです。
パウロは自分の問題や必要に目を向けたのではなく、カイザリヤから地中海を眺めながら、
海の向こうにあるローマに目を向け、ローマでの伝道に思いを向けていたことでしょう。
イエス様は、弟子たちに「目を上げて畑を見なさい」言われました。ヨハネ4:35。
私たちは、自分の生活だけに追われていたり、自分の問題だけしか目に入らなかったり、
自分の必要の満たしや祝福だけを求めるような自己中心な者となっていないでしょうか。
今、私たちには、福音宣教のために、「目を上げて」見るということが必要なのです。
私たちの目を自分の必要や問題、この世のことから切り離すのです。
そして、さらに目を高く上げて、福音宣教に目を向けるのです。
3.一粒の麦となる
ローマでは、「パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許され」(使徒28:16)ました。
そのような中でも、パウロは各地の教会に宛てた手紙を書き、
各地のクリスチャンたちを励ましたり、教えたりしました。
パウロは、一旦は捕らわれの身から解放され、数年間、伝道に励んでいましたが、
皇帝ネロの時代の迫害の時に、再び捕らえられてしまいました。
そして、67年頃、パウロは、ローマで斬首されて殉教したと伝えられています。
そして、同じ頃、ペテロもヴァチカンの丘で逆さ十字架にかけられ殉教しました。
パウロもペテロも、命がけで福音を宣べ伝え、福音宣教のために人生をささげました。
パウロやペテロだけではなく、他の使徒たちも、福音宣教のために命をささげました。
彼らは、みな福音宣教のために「一粒の麦」となったのです。ヨハネ12:24。
彼らは、福音宣教のため命をささげましたが、それによって多くの人々が救われ、
永遠のいのちが与えられるようになったのです。
そして、最初に「一粒の麦」となったお方は、イエス・キリストです。
イエス様は、私たちを救うために、「一粒の麦」となって、十字架で死んで下さったのです。
パウロやペテロやその他の使徒や聖徒たちも、イエス様と同じように、
人々の救いのために「一粒の麦」となっていったのです。
パウロは、「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」と言っています。ローマ14:8。
福音宣教は、私たちに与えられた「使命」です。
「使命」とは、英語で「ミッション(Mission)」といい、
ラテン語の「派遣する、遣わす」という言葉から派生しています。
私たちは、福音を人々に宣べ伝えるため、イエス様によってこの世界に派遣されたのです。
また、「使命」とは、漢字で「命」を「使う」と書きます。
私たちは、何のために人生を使っているでしょうか。
私たちも、パウロのように、福音宣教に対する情熱を持とうではありませんか。
私たちの目を高く上げて、福音宣教を目指すのです。
そして、福音を宣べ伝えるために、自分の人生をささげていきましょう。
パウロたちから福音のメッセージを受け取った私たちは、
今度は他の人々に情熱をもって福音を宣べ伝えていく者となるのです。
Filed under: 伊藤正登牧師