20.2.2.

「みこころが天で行われるように地でも行われますように」(10)という祈りから、3つのことが教えられます。

1.自己実現ではなく御心実現を優先する

多くの人々が、祈りは「自分の願いを叶えるためのもの」と考えています。そして、神を「自分の願いを叶えてくれる存在」と考えています。しかし、神を自分のために利用するような祈りは、自己中心的な祈りです。イエスは、主の「みこころが…行われるように」祈りなさいと言われました。なぜ、自分の願いではなく、主の御心が実現することを求めるのでしょう。

① 神が私たちの主であるから

神は、全てを造られた創造者であり、全てを治めておられる支配者です。それに対して、私たちは、神に造られた被造物であり、神の権威の下にある者です。私たちが主なのではなく、神が私たちの主なのです(詩100:3)。ですから、神の御前にへりくだり、神の御心に従わなくてはなりません。

② 主の御心が最善であるから

私たちの願いにも、それなりの正統的な理由もあり、理屈も通っているでしょう。しかし、神は、私たち人間よりも遥かに高い視点から、物事の先まで見通しておられ、私たちとは異なった思いを持っておられます(イザ55:8-9)。主の御心が最善なのであり(エレ29:11)、主は最善へと導いて下さるのです(ロマ8:28)。イエス自身も、十字架にかかられる前に、ゲッセマネの園で、「…どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マコ14:36)と祈りました。

イエスは、十字架にかかり、死ななければなりませんでした。それは、人間的には、避けたいことでした。しかし、十字架にかかり死んで、全人類の贖いがされることが父なる神の御心でした。イエスは、自分の願いではなく、父なる神の御心が実現することを求めたのです。

2.天で行われる御心の地上での実現を求める

人生には、決断しなければならないことや、選択しなければならないことがあります。人生の大切な局面で、主の御心を求めるということは、とても大切なことです。

パウロは、ロマ12:2の中で、「神のみこころ」とは、「良いことで、神に受け入れられ、完全である」ことであると語っています。「神のみこころ」とは、まず「良いこと」でなければなりません。また、「神に受け入れられ」ることとは、「神に喜ばれること」とも訳せます。「良いこと」であっても、自分や人が喜ぶだけでは、「神のみこころ」とは言えません。神に喜ばれることかどうかが、「神のみこころ」を見分けるポイントになります。さらに、「神のみこころ」とは、「完全である」ことです。この「完全である」(テレイオス)という言葉は、「実現した」、「成就した」、「完成した」とも訳せる言葉です。それは、「神の国」の「実現」、「成就」、「完成」と言えます。

「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とは、「天で行われる」「みこころ」が「地でも行われますように」ということです。「天で行われる」「みこころ」とは、どの学校に入るのか、何の仕事をするのか、どこに住むのか、誰と結婚するのかなどの私たちの個人的な事柄ではありません。「天で行われる」「みこころ」とは、神の支配の下にある「義と平和と…喜び」の実現です。ですから、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈りは、「天で行われる」神の支配の下にある「義と平和と…喜び」の実現が、この「地でも行われますように」という祈りなのです。すなわち、天における神の支配の実現がこの地上でも実現するようにということです。

3.御心の実現のために生きる

「みこころが…行われますように」と祈るということは、ただ漠然と、どこかで、誰かによって、御心が行われるようにということではありません。「自分を通して御心が現されるように」、「御心を行わせて下さい」という祈りなのです。それは、主の前にへりくだり、主に全てを明け渡し、主に従うことです。たとえ、それが自分の望まないことであっても、自分が理解出来ないことであっても、たとえ自分の予定が狂っても、自分のしたいことが出来なくなっても、犠牲が伴っても、主が望まれることであるなら、どんな事にも従うということです。

主の御心に従って歩むことの最高の模範は、イエスご自身です。イエスは、自分の「望むことを求めず、…遣わした方のみこころを求め」(ヨハ5:30)ました。イエスは、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです」(ヨハ6:38)と言われました。父なる神の御心とは、「神の国」を回復することでした。イエスは、人々を病気や悪霊から解放することによって(マタ9:35)、実際に「神の国」を現わし示したのです(マタ12:28)。そして、最終的に、父なる神の御心に従い、十字架にかかって死ぬことによって、サタンを打ち砕き、人間をサタンの支配から解放して下さったのです(へブ2:14-15)。

「みこころが…行われますように」という祈りを実現させるために、私たちも、人々に「神の国」の福音を伝えなくてはなりません。そして、彼らを「暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」るのです。すなわち、イエス・キリストを「信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせる」のです(使26:17-18)。そして、「義と平和と聖霊による喜び」(ロマ14:17)が満ちた「神の国」を実現するのです。

 

「御国が来ますように」と「みこころが…行われますように」と祈りつつ、自分が置かれている家庭、学校、職場、地域に、私たちを通して、「義と平和と…喜び」が満ちた「神の国」が実現することを求めましょう。イザ54:2-3

Filed under: 主の祈り伊藤正登牧師