15.09.27

心配はやめて神様に信頼しよう

マタイ6:25-34

1.心配はやめて神様を信頼しよう

マタイ6:25には、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと心配してはならないとあります。これはありあまる中から自分の好みを見つけるのに困っているというぜいたくな悩みではなくて、たとえば貧しい人が、食べ物などの必要を前にして困り果て、心配してしまったり、さまざまな必要があるにも関わらず、それらの必要をどこから得たらよいか分からず困り果て、心配してしまうことを言っています。心配(メリムナオー)とは、心苦しく不安になることです。

私たちは神様によって造られ、体と命が与えられています。ですからそれらをどのように維持したらよいかということも神様が用意して下さっているのです(マタイ6:25,26)。神様はすでに私たちが生きるために必要なものを用意されておられるのです。神様は世界を創造されたとき、人間を最後に造られました。人間はすべてが整った状態で生かされているのです(創世記1:26)。

鳥を養っておられるお方が、人間は放っておかれるでしょうか(マタイ6:26)。花にも愛情を注ぎ、飾っておられる方が、人間に愛情を注がないはずがありません。もっと神様を信頼しましょう(マタイ6:28,30)。

神様が人間を特別に扱っておられるのですから、私たちのいろいろな思い煩いは神様にゆだねましょう。神様が私たちのことを心配してくださいます(Ⅰペテロ5:7)。

神様は私たちよりも力のあるお方です。私たちが心配したからといって、自分の寿命を延ばすこともできませんが、神様には不可能はありません(マタイ6:27、19:26)。

2.その日その日の務めを全うしよう

神様に信頼するとは、神様から日々与えられた務めを行うことです。すべきことはきちんとすることです。
「心配しない」ということは、「何もしない」ということでも、安心して想定される災害に対する備えを怠るということでもありません。たとえば、ギデオンが300人の兵士を選ぶとき、敵の攻撃を想定しないで這いつくばって水を飲んだ者は失格になったのです。どこから敵が来てもすぐに対処できるように、また集合の合図にすぐに応じることができるようにと手で水を救った者が合格になりました。自分に与えられたことを精一杯はたして行くのが神様に喜ばれることです。たとえ何かの心配事があったとしても、神様から与えられた務めを一生懸命こなしていくなら、それは神様に対する信頼があるということです。明日の心配をしないで、その日その日の労苦をしっかり担うことが神様を信頼することなのです(マタイ6:34)。

神様から与えられた務めをしっかり行うということは、自分のなすべきことに専念するということです。空の鳥は餌を探すのに一生懸命です。確かに種まきしたり刈り入れたりはしませんが、与えられた仕事は一生懸命こなします(マタイ6:26)。また、野のゆりは、根から養分を吸収し、太陽からは光をいただいて成長します。しかし、ゆりが働いたりつむいだりということはしません(マタイ6:28)。

3.神様を第一に求めよう

心配しないで、神様を信頼するということは、何をするにも神様を第一にするということです。神の国とその義とをまず第一に求めるなら、必要は満たされるのです(マタイ6:33)。私たちが心配しなければならないことは、心が神様から離れないようにということです。つまり、イエス様から目を離してはならないのです(へブル12:2)。どうしても必要なことは一つだけなのです(ルカ10:42)。神様を第一にすることができるように、日々心を見張りましょう(箴言4:23)。

イエス様から目を離さないようにするために、私たちは教会に来て、ともに主を礼拝しましょう。ともに信仰を励まし合いましょう(へブル10:24-25

さまざまな心配をすべて捨て去りましょう。神様は信頼できるお方です。神様を信頼して、日々すべきことに専心し、神様から与えられた務めに励みましょう。そして神様を第一に求めて歩みましょう。神様が必要に答えて下さいます。

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