Ⅰサムエル13章

23.8.6.
9~11章は、サウルがイスラエルの王として立てられていく過程が記されているが、13~15章には、サウルが王の地位から退けられていく過程が記されている。13章は、サウルが失脚していくことになる最初の出来事について記されている。サウルは、なぜ神に退けられたのか。どんな過ちや失敗を犯してしたのか。
1.サウルの失敗
ある時、サウルの息子「ヨナタンはゲバにいるペリシテ人の守備隊超を打ち殺した」(2)。ペリシテ人たちは、イスラエルに「恨み」(4)を抱き、「イスラエルと戦うために集まった」(5)。彼らは、「戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった」(5)。サウルも自分の下にイスラエル中から人々を呼び集めた(3-4)。初め、サウルの下に「二千人」、ヨナタンの下に「千人」、計「三千人」いた(5)。
しかし「戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった」(22)。彼ら持っていた武器は、「鋤や、くわや、斧や、かま」(20)などの農具だけだった。ペリシテの方が圧倒的に優勢で、イスラエルには勝つ見込みはなかった。そのため「イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた」(6)。「またあるへブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った」(7)。また、サウルに従って来た人々も恐れて「震えながら彼に従っていた」(7)。
戦いの前に、祭司サムエルがやって来て、神にいけにえをささげ、祈ることになっていた。しかし「サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間まったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、民は彼から離れて散って行こうとした」(8)。最終的に残ったのは約6百人(15) で、サウルは彼らをくい止めなければならなかった。そこで、サウルは、自分でいけにえをささげてしまった(9)。そして「ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た」(10)。
サムエルは、サウルに「あなたは、なんということをしたのか」(11)と問い詰めた。しかし、サウルは、自分の過ちを認めることなく、「人々が離れ去ろうとしていた。サムエルがなかなか現れなかった。敵が迫っていた」と言い訳を言うだけだった(11-12)。サムエルは、サウルに「あなたは愚かなことをしたものだ。…今は、あなたの王国は立たない。…あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ」(13-14)と厳しく叱責した。
2.サウルの問題点
① サムエルを待てなかった
サムエルは、サウルに「七日間」(8)待つようにと命じていた。Cf.10:8。サウルがいけにえをさささけ終わった時に、ちょうどサムエルが到着したのだから、もう少し忍耐して待っていれば、何の問題もなかった。サウルをこのような行動に駆り立てさせた原因は、「恐れ」にあった。ペリシテ軍の方が圧倒的に優勢で、イスラエルには勝つ見込みはなかった。そのため、イスラエル人たちは、圧倒的に強大なペリシテ軍を見て恐れ震えていた。しかも、サムエルがなかなか来なかったため、離れ去って行く者たちもいた。そのため、初めに3千人いた人たちも、6百人に減ってしまった。サウルは、そのような現状を見て恐れました。そして焦りが生じて来た。
② 自分で勝手にいけにえをささげてしまった
サウルは「思い切って全焼のいけにえをささげたのです」(12)と言っている。しかし、いけにえをささげることが出来るのは、祭司サムエルだけだった。サウルは、イスラエルの人々が恐れて自分から離れ去っていくのを見て、何とかイスラエルの人々を自分の下に繋ぎ止めようしたのであった。そこで、いけにえをささげることによって、イスラエル人たちの士気を高め、彼らを自分の下に留めようとした。サウルが勝手にいけにえをささげたことは、人間的な考えや方法によることだった。サウルは、自分が良いと考える方法をとり、自分の力で問題を解決しようとした。サムエルを待つことが出来ず、焦って自分勝手にいけにえをささげてしまいました。これは、サウルの高慢さを表すものでもあった。
③ 自分の罪を認めず言い訳をした
サウルは、サムエルから「あなたは、なんということをしたのか」(11)と問い詰められた時、すぐに自分の過ちを認めて告白し、悔い改めるべきだった。しかし、サウルのしたことは、単なる言い訳だった(11-12)。サウルの言葉の中には、自分の責任が一言も語られていない。
すなわち、離れ去ろうとした民が悪い、遅れて来たサムエルが悪い、襲って来たペリシテ人が悪いと言っているようなものだった。サウルは、これらの特別な事情(理由)のために、どうすることもできず、仕方なかったと言って、自分の罪を認めず、自分のしたことを正当化しよとした。サウルのこのような言い訳は、この後にも再び繰り返される。真の悔い改めがなければ、また同じような過ちや罪を繰り返すことになる。
結論
神を信頼するということは、神の時を待つということ。どんなに、遅いように、遅れているように見えても、恐れず、焦らず、忍耐をもって、待ち望み続けるなら、道は開かれる。神に助けを祈り求めていても、なかなかその答えが得られないと、イライラしてしまったり、焦って自分の判断で行動してしまいたくなるが、しかし、自分の考えや方法に従うのではなく、神の御心、方法に従わなければならない。ハバ2:3。へブ10:35-39。へブ11:6。神の前でへりくだり、自分の罪を認め、その罪を悔い改めることが大切。私たちが自分の罪を正直に認め、告白し、悔い改める時、神は私たちを赦し、立て直し、祝福して下さる。詩51:17 。箴28:13。イザ57:15。Ⅰヨハ1:9。恐れ退く者ではなく、神を待ち望み、信頼する者となろう。