15.4.19.

我が心の目を開いて下さい

ルカ24:13-35

イエス様が復活された日、クレオパともう一人の弟子が、
エルサレムから11km離れたエマオへと向かって暗い気持ちで歩いていました。
しかし、その日の夜には、その同じ道を大きな喜びと希望をもって戻って行ったのです。
このエマオへの道中、彼らに何が起こったのでしょう。

1.目が閉ざされていた二人の弟子

二人はエルサレムで起こった出来事について話し合いながら歩いていました。
その内容は、19~24節で説明されていることでした。
彼らは大きな悲しみと落胆と疑いの中を歩んでいたのです。
そこにイエス様が近付いて来て、彼らと共に道を歩まれました。(15)
私たちの人生にも様々な悲しみ、失望、疑いなどがあります。
そのような時、イエス様はそっと私たちに近付いて下さり、
私たちと共に歩み、私たちに語り掛けて、慰め励まして下さるのです。マタイ28:20
主は、決して私たちを見捨てたり、見離したりはなさいません。申命31:6,8
しかし、イエス様が折角近付いて共にいて下さり、語り掛けて下さっても、
そのことに気が付かないことがあります。
この二人の弟子もイエス様を見ていながら、それがイエス様だと気付きませんでした。
16節には「ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとわからなかった」とあります。
つまり、霊的な目が閉ざされていたということです。Cf.イザヤ43:8。エレミヤ5:21
イエス様は二人の弟子に「ああ、愚かな人たち。
預言者たちの言ったすべてのことを信じない、心の鈍い人たち」(25)と言いました。
私たちも目の前の現実や自分の知識や経験また常識だけで理解しようとするなら、
神様のことも、みことばも、霊的真理についても分からないままになってしまいます。
そして、そのような霊的な盲目状態になってしまうなら、
本当の喜びも希望も確信もない暗闇の中を歩むことになってしまうのです。
霊的な目が閉ざされているため、人生の暗闇の中を歩んでいることはないでしょうか。

2.目が開かれた二人の弟子

幸いなことに、この二人の弟子はついにその霊的な目が開かれて、
自分たちと一緒におられるお方がイエス様であると分かるようになりました。(31)
どうして、二人の弟子の霊的な目が開かれるようになったのでしょうか。

① みことばの教えによって

この二人の弟子はイエス様を救い主キリストとしてではなく、
「行いにもことばにも力のある預言者」(19)としか考えていませんでした。
イエス様は旧約聖書全体からキリストの受難や復活について説明されました。(26,27)
実はそのことについては、イエス様が十字架にかかられる前に、
弟子たちに既に聖書全体から説明していたことだったのです。(44)
二人の弟子は一緒にいるお方がイエス様だと分かった時、
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちの心はうちに燃えていたではないか」(32)と互いに言い合いました。
彼らはみことばとその説き明かしを聞いているうちに、
次第に信仰が強められ、心が熱く燃やされていったのです。
信仰が強められ、燃やされるためには、みことばが必要です。ローマ10:17。詩篇119:130
ですから、私たちも聖書全体をもっと読み、学ぶことが必要なのです。
みことばを読み、学ぶことなしに、霊的な目が開かれることはありません。
みことばは私たちの霊的な目が開かれるための土台となるものなのです。

② 主との交わりによって

二人の弟子はイエス様に一緒に泊まって下さるようにと無理に願いました。
イエス様は彼らの願いを聞き、一緒に家の中へと入られました。(29)
そして、イエス様は彼らと共に食卓に着かれると、パンを裂いて彼らに渡されました。(30)
すると「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(31)のです。これは聖餐式です。
聖餐式は英語で「Holy Communion」と言い、「聖なる交わり」という意味です。
つまり、イエス様との交わりの中でイエス様が分かるようになったということです。
今日、イエス様との交わりは聖霊によって持つことが出来ます。
私たちには「もうひとりの助け主」である「真理の御霊」が遣わされています(ヨハネ14:16,17)。
そして、聖霊は私たちに「すべてのことを教え」、
イエス様が語られた「すべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。
また、「真理の御霊」である聖霊は私たちを「すべての真理に導き入れます」(ヨハネ16:13)。
聖霊との交わりの中で、聖霊によって霊的な目か開かれていくのです。
パウロは聖書の知識はありましたが、イエス様のことを理解していませんでした。
しかし、彼は聖霊の働きによって霊的な目が見えるようになったのです。使徒9:17,18
また、パウロは「隠された奥義としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)、
霊的な事柄については、御霊よってしか理解できないと言っています。Ⅰコリント2:10-14
そして、パウロはエペソの手紙の中で、御霊によって霊的な目が開かれ、
霊的な事柄が分かるようにと祈っています。エペソ1:17-19
また、ラオデキヤの教会は霊的な「盲目」であると言われました。黙示3:17
だから「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3:18)と言われました。
そして、イエス様を招き入れ、イエス様と交わりを持つようにと言われました。(黙示3:20)
私たちも主との交わりを持つために、熱心に主を慕い求めようではありませんか。
そして、私たちも御霊によって主との交わりの時を持ち、霊的な目を開かれ、
神様について、みことばについて、霊的な真理について理解出来る者となりましょう。

霊的な目が開かれた二人の弟子には悲しみも失望も疑いもありませんでした。
彼らはもう暗い顔つきをすることなく、エルサレムに戻ってイエス様の復活を証しました。
私たちも日々聖書を読み、学び、熱心に主を慕い求め、
聖霊による主との交わりを持ち、霊的な目を開いていただきましょう。
そして、イエス様が生きておられることを生き生きと証する者となりましょう。

Filed under: 伊藤正登牧師