15.3.15.
我に死に主に生きる
マルコ10:17-31
ある時、イエス様のもとに「ひとりの人が走り寄って」(17)来ました。
この人はマタイ19:20によると「青年」であり、ルカ18:18では「役人」と言われています。
ですから、彼は若くして役人となった裕福な人、成功した人であったようです。
また、この人は宗教的にも熱心な人であったことが、彼の質問から伺えます。
彼はイエス様に天国に入る方法を尋ねるためにやって来ました。
しかし、結果は悲しみながら立ち去ることになってしまったのです。
なぜそのようになってしまったのでしょう。この人の問題点は何だったのでしょう。
1.自負心と自己満足の中にあった
当時のユダヤ人たちの関心事は、「どうしたら永遠のいのちが得られるか」、
「どうしたら神の国に入られるか」ということでした。
そして、人々は永遠のいのちを得るためには、何か良いことを行ったり、
律法を守ったり、何か人間の側からの努力が必要であると考えていたのです。
ですから、マタイ19:16では「どんな良いことをしたらよいのでしょうか」となっています。
イエス様は彼に答えて、十戒の後半部分の人間関係における戒めを示されました。
しかし、イエス様は単に律法を守り行うようにと言ってえられたのではなく、
この人の欠けている部分を気付かせるために、このように言われたのです。
イエス様の言葉に対して、彼は「私はそのようなことをみな、
小さい時から守っております」(20)と自信をもって答えました。
彼には自分は小さい時から戒めは守って来たという自負心や、
自分はちゃんとやっているという自己満足(自信)があったのです。
それゆえ、自分には永遠のいちのを得て神の国に入る資格があると考えていたのです。
私たちも長年信仰生活を送っていると、
いつの間にか自分の信仰について自負心と自己満足に陥ってしまうことがあります。
自分は何年も信仰生活を送っているとか、忠実に礼拝を守っている、奉仕している、
什一とその他のささげものをしている、聖書を読み、祈っている、etc…。
だから大丈夫だと自己満足に陥り、それ以上のことをしなくなってしまうのです。
それによって、形式的、表面的な信仰の歩みとなり、恵みが感じられなくなるのです。
2.この世の富に対する執着心があった
自負心と自己満足の中にあった彼に、
イエス様は「あなたには、欠けたことが一つあります。
帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」(21)と言いました。
イエス様は、財産を売って、それを貧しい人々に与えるという善行によって救われ、
永遠のいのちを得、神の国に入れるのだと言っておられるのではありません。
イエス様はこの人の「欠けたこと」を示すためにこのように言われたのです。
イエス様の鋭い一言は、彼の中にあった問題点(急所)を刺し通しました。
それによって、彼には何が欠けていたかが明らかに示されたのです。
それは、富に対する執着心でした。
この人は戒めを守り、表面的・形式的には神様に従っているようでした。
しかし、神様よりもこの世の富を愛し、神様よりも富が大切なものとなり、
富が彼の神(偶像)となってしまっていたのです。
そして、富を手放すことが出来なくなってしまっていたのです。
しかし、私たちを神様から引き離してしまうもの、神様よりも大切にしてしまうもの、
神様(偶像)にしてしまうものは、富や金銭ばかりではありません。
仕事、名誉、時間、家族、友人、趣味、人生の夢、etc…。
アブラハムの場合はイサクだったと言えるでしょう。
自分にとって一番大切なもの、犠牲にしたくないもの、譲りたくないものとは何でしょう。
私たちの内には、私たちを神様から引き離してしまうもの、
神様よりも大切になってしまっているもの、
神様(偶像)になってしまっているものはないでしょうか。
3.悲しみながら主のもとを去った
イエス様は決して彼を嫌っていたのでも、拒んでいたのではありません。
この人に語り掛ける時、イエス様は「彼を見つめ、いつくしんで」(21)語ったとあります。
イエス様は、この人に対する愛情を注ぎながら語り掛けられたのです。
イエス様は彼が自分の問題点に気付き、
自分の弱さや足りなさを悔い改めることを望んでおられました。イザヤ51:17。
そして、主の前にへりくだって憐れみと助けを求め、
イエス様に従って来るようになることを期待しておられたのです。
ですから、イエス様は最後にこの人に対して、
「そのうえで、わたしについて来なさい」(21)と語り掛けられました。
しかし、彼はただ自分の弱さと足りなさだけを見て、
「自分には出来ない」と絶望し、悲しみながら去って行ってしまったのです。
彼が去った後、イエス様は弟子たちに「それは人にはできないことですが、
神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(27)と言われました。
この人は、自分の弱さや足りなさだけに目を向けるのではなく、
どんなことでも出来る全能の神様に信仰の目を向けるべきであったのです。
「自分には何も出来ない」と、自分の殻の中に閉じこもってはなりません。
自分に出来ないことに目を向けて立ち去るのではなく、
神様には何でも出来ると信じて、神様に近付いていくことが大切です。へブル4:15,16。
この人は、人間的には若くして役人となり、金持ちとなった出世した人であり、
子どもの頃から戒めを守り行う宗教的な人であり、人々に尊敬されるような人でした。
しかし、彼の内面には、自負心と自己満足、富に対する執着心がありました。
そして、彼は自分の弱さと足りなさを嘆き悲しんで主から離れて行きました。
イエス様は私たちがエゴやプライドに死んで、全てを主にささげて、
主に従って歩むことを望んでおられます。ルカ9:23,24。
Filed under: 伊藤正登牧師