18.12.23
イエスが「お生まれになったとき」「東方の博士たちがエルサレムにやって来」(1)ました。彼らは、「東方」、即ちかつてバビロニア帝国のあったメソポタミア地方から来ました。昔、ユダヤ人たちは、バビロニア捕囚によって、その地域に強制移住させられました。ですから、その地域では、ユダヤ人の文化、宗教、習慣などがよく知られていました。また、この「博士たち」とは、「星占いの学者たち」のことです。「博士たち」は「ユダヤ人の王」即ち「キリスト」の誕生を知らせる星を発見しました。そこで、「博士たち」は、キリストを礼拝するためにエルサレムまでやって来ました。この「博士たち」の礼拝の姿から、礼拝の姿勢について学ぶことが出来ます。
1.主の前に進み行く
「博士たち」は、キリストを礼拝するために、遠く離れた東の国からはるばる旅をして、エルサレムまでやって来ました。何千キロにも及ぶ旅には、多くの時間と労力と費用がかかったことでしょう。「博士たち」は、様々な困難や危険を覚悟し、多くの犠牲を払って旅立ったのです。同じように、主の前に進み出るためには、何らかの困難や犠牲を伴うことがあります。教会に来て、礼拝するためにも、時間をとり、お金や労力をかけなくてはなりません。時には、自分の仕事や好きな事、人間関係も犠牲にしなければならないでしょう。 最近は、インターネットやテレビのキリスト教番組で、自宅で手軽に礼拝に参加出来ます。そのため、教会に行こうとしないで、自宅での手軽な礼拝を求める人もいます。「博士たち」も、わざわざ多くの困難や犠牲を払ってまでエルサレムまで行かなくても、自分たちのいる東の国で礼拝することも出来たでしょう。しかし、彼らは、実際にキリストの前に進み出て行き、礼拝することを願ったのです。このように、礼拝には、実際に「主の前に進み行く」ことが必要なのです。「博士たち」がキリストを礼拝するために、わざわざエルサレムまで旅をして来たように、私たちも主を求めて礼拝するために、共に教会に集まりましょう。へブル10:25。 「主の前に進み行く」とは、単に教会に行くだけではありません。主を求め、主に近づき、主の臨在の中に入っていくことが何よりも大切なのです。礼拝の中で行われる賛美や祈りは、それ自体が目的なのではなく、主に近づくためのものなのです。詩篇100:4。礼拝とは、儀式でも、プログラムでもなく、生ける主との交わりなのです。
2.主の前にひれ伏す
「博士たち」は、キリストがベツレヘムで生まれることを知らされると、彼らは早速ベツレヘムへと向かいました。「すると、…星が彼らを先導し、…幼子の…所まで進んで行き、その上にとどまった」(9)のです。「博士たち」がその「家」に入ると、そこには「幼子」のイエスがおられました。そして、「博士たち」は、イエスの前に出て「ひれ伏して拝んだ」のです。 この「ひれ伏して拝んだ」という言葉は、原語のギリシャ語では「プロスクネオ」といい、「頭を低く下げ、または跪いて、相手を誉め称える」という意味です。この言葉は、ヨハネ4:23-24など新約聖書では「礼拝する」と訳されています。礼拝とは、「主の前にひれ伏す」ということです。即ち「主の前にへりくだる」ことです。しかし、「へりくだる」ということは、「自己卑下すること」ではありません。「主の前にへりくだる」ということは、「主を高く上げる」ということです。即ち、主がどんなに偉大なお方であるのか、恵み深いお方であるのかを覚え、主を賛美し、ほめたたえることです。詩篇150:1-2。Cf.詩篇103:1-5、136:1-26。 礼拝の目的は、私たち自身を高めることではなく、主を高めることです。しかし、今日、礼拝の目的が、自分を高めることになってしまっていないでしょうか。即ち、自分が霊的に恵まれること、感情的に満たされること、気分が良くなることが、礼拝の目的となってしまっていないでしょうか。自分が恵まれようが、恵まれまいが、主を高く上げることが礼拝において大切なのです。そして、礼拝で恵まれるのは、主を高め、主をほめたたえた結果なのです。
3.主に最高のものをささげる
「博士たち」は、イエスの前に「黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ」(11)ました。礼拝とは、私たちが何かを受けることではなく、私たちが主にささげるものです。「博士たち」の「贈り物」は、イエスがどのようなお方であるかを示すものでした。 ・「黄金」は、王にささげられる贈り物でした。 この「黄金」は、イエスが「王」であることを示しています。 ・「乳香」は、神殿で、祭司が神殿で神に犠牲や祈りをさげる時に用いるものでした。 この「乳香」は、イエスが「神」であることを示しています。 ・「没薬」は、埋葬の時に死体に塗るものでした。 この「没薬」は、イエスが「贖い主」であることを示しています。 即ち、イエスが十字架の死によって、私たちたちを贖って下さるお方ということです。 大切なポイントは、「博士たち」が「最高のもの」をささげたということです。旧約時代には、礼拝には必ずささげ物が携えられなければなりませんでした。羊や家畜の群れの中から、傷のない一番良いもの、「最高のもの」を選んでささげました。 今日、動物のささげ物はもはや必要なくなりました。イエスが十字架で、完全ないけにえ、「最高のもの」としてささげられたからです。今日は、礼拝において、賛美、祈り、献金がささげられています。主へのささげ物は、「最高のもの」でなくてはなりません。私たちも「博士たち」のように、「最高のもの」を主にささげましょう。私たちが主にささげるべき最高の贈り物とは何でしょう。それは自分自身です。ローマ12:1。それは、日々、主が語られることに聞き従って歩むということです。
私たちが主を礼拝出来るのは、主からの恵みがまず私たちに与えられたからです。イエスは、私たちを救うために最高の贈り物となって下さったのです。神から送られた最高の贈り物であるイエスを心から感謝して、「東方の博士たち」のように、心からの礼拝をささげましょう。
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