17.6.18.

父のもとに帰ろう

ルカ15:11-24

この例え話は、「放蕩息子の例え話」と呼ばれていますが、
中心人物は放蕩息子ではなく、彼を待ち続け、彼を受け入れた父親です。
この父親を通して、父なる神様がどのようなお方であるかが示されています。

1.神様は私たちの自由意志を尊重される

弟は、父親に「私に財産の分け前を下さい」(12)と言いました。
そして、「いく日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った」(13)のです。
弟が「遠い国に旅立った」のは、今の生活から逃げ出すためだったかもしれません。
彼は、今の生活に嫌気がさし、父の家から逃げ出して、どこか「遠い国」へ行けば、
幸せになれるのではないかという希望を抱いたのでしょう。これは単なる現実逃避でした。
そんな弟に、父親は、簡単に「財産の分け前」を与えてしまいました。
なぜ、父親は、弟息子を叱ったり、彼の要求を拒まなかったのでしょう。
この父親は、あまりにも優し過ぎ、寛大過ぎるのではないでしょうか。
実は、この父親は、大人となった息子に、自分の人生を自分で選ぶ自由を与えたのです。
父親は、弟息子に、絶対に家に留まっていなさいと、強制しませんでした。
そして、気前良く、「財産の分け前」を与えてしまったのです。
私たちの父なる神様も、私たちに自分の人生を自分で選ぶ自由を与えておられます。
しかし、それは、放任しているということではありません。
神様は、正しい事と間違っている事、良い事と悪い事を示しておられます。
そして、私たちに正しい事、良い事を選ぶようにと教えておられます。
その上で、私たちの自由意志を尊重し、私たちに選択を任せておられるのです。
エデンの園でも、神様は、アダムとエバに自分の意志で神様に従うようにされました。
しかし、神様は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世1:17)とも言われました。
しかし、残念ながら、アダムとエバは、神様に背き、罪を犯してしまったのです。
自分が選択して行った結果は、自分が刈り取ることになるのです。ガラテヤ6:7,8

2.神様は罪人が帰って来ることを待っておられる

「遠い国に旅立った」弟は、「そこで放蕩して湯水のように財産を使って」(13)しまいました。
「財産を使ってしまった」の「財産」とは、原語で「本質、存在」の意味があり、
無駄にしてしまったのは「財産」だけではなく、彼の人生と彼自身だったのです。
そのような時、「大ききんが起こり、彼は食べるものにも困り始めた」(14)のです。
落ちぶれてしまった弟から人は去り、彼は誰からも助けてもらえませんでした。
「それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、
その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた」(15)とあります。
あまりにも空腹で、「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい」(16)と思うほどでした。
弟は、墜ちるところまで墜ち、やっと目が覚め、自分の過ちに気づきました。
聖書は、その気付きのことを、「我にかえった」(17)と言っています。
弟は、「自分はなんてくだらない生き方をしてきたのだろう」と気付いたのです。
また、父親の元にいることが、実は本当は幸いなことなのだと気付きました。
そして、ついに父親の家に帰る決心をし、父親への謝罪の言葉も考えました(18,19)。
弟は、ボロボロの身なりで、腹を空かせ、裸足でトボトボ歩いて帰ったことでしょう。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、
かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(20)のです。
息子を見つけた父親は、自分の方から息子に「走り寄って」行きました。
父親は、毎日毎日、弟息子の帰りを待ち続け、地平線の彼方をながめていたのです。
私たちの父なる神様も、ご自分から離れ、背を向けて、
自分勝手に生きている罪人が帰って来ることを待っておられるのです。エゼキエル18:23

3.神様は罪人を受け入れ回復させて下さる

父親は、弟息子の言葉を最後まで聞かず、召使たちに言いました。
「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」(22)
「着物」とは、私たちの裸、すなわち私たちの恥を覆う物です。
神様は、アダムとエバのために「皮の衣」(創世3:21)を用意して下さったように、
私たちを覆うための「着物」を用意して下さいました。それは、イエス・キリストです。
神様がアダムとエバに与えた衣は、血を流すことによって作られた「皮の衣」でした。
これは、キリストの贖いの血を信じる者に与えられる「キリストの義」を表しています。
Cf.ガラテヤ3:36,27エペソ4:22-24
私たちが罪を悔い改め、イエス様を信じる時、義の衣であるキリストが着せられるのです。
すなわち、キリストのゆえに義とされて罪のない者とみなされるのです。ローマ9:20-28
「指輪」をはめさせたということは、子どもの身分の回復を意味しています。
「指輪」は、その人の地位を証明するもので、印鑑と同じ役割も果たしました。
父親が弟息子に「指輪」をはめさせたということは、
弟息子が本当に自分の息子であるということを証明するものであったのです。
同じように、私たちも、イエス様を信じた時に「神の子ども」(ヨハネ1:12)とされました。
「くつ」を履かせるとは、奴隷ではなく、自由人であるということでした。
当時、奴隷は、「くつ」を履かず、裸足で生活させられていました。
弟息子は、「くつ」を履かせられ、もう奴隷ではないと、宣言されたのです。
同じように、私たちは、イエス様を信じた時に、罪から解放され、
もはや罪の奴隷ではなく、自由が与えられたのです。ガラテヤ5:1

父親は言いました。「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。」(23)
そして、父親は、「この息子は、死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから」(24)と言って、「宴会を始めた」のでした。
私たちが、父なる神様の元に帰る道は、イエス・キリストです。ヨハネ14:6
父なる神様のもとに帰りましょう。父なる神様は、あなたの帰りを待ちわびています。
そして、あなたが帰って来るなら、無条件に受け入れ、救って下さるのです。

Filed under: 伊藤正登牧師