使徒16:16-40、とくに、16-26

250323
主を信じていれば災いに遭わないと思い込んでいる人もいるかもしれません。しかし、聖書を見ると、立派な信仰者でもひどい目に遭うこともあるようです。パウロとシラスは福音のために働いていたのに、人々に受け入れられず、鞭打たれ、牢屋に投げ込まれてしまいました。このような状況で、パウロたちはどのようにしたのでしょうか。
1.災いも神の許しの範囲内でおきること
パウロとシラスは第2回伝道旅行で各地に福音を宣べ伝えていました。ある日、幻を見て聖霊の導きを確信し、マケドニヤにやってきました。最初にマケドニヤ第一の都市であるピリピの町にやってきました。ピリピにはユダヤ人の会堂がありませんでしたが、祈り場がありました。そこにいた紫布の商人ルデヤが信仰に入り、その家を拠点に福音の働きをするようになりました。パウロとシラスが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷にしつこく付きまとわれました。彼女はパウロたちが神のしもべであると叫んでいました。幾日もつきまとわれたので、パウロはイエスの御名によってこの女から占いの霊を追い出しました。しかし、この女の占いで金儲けをしていた彼女の主人たちは、パウロたちを訴えました。群衆までこの主人たちに同調してパウロたちを責め立てました。パウロたちは群衆の面前で裸にされて鞭打たれ、牢屋に投げ込まれてしまいました。
素晴らしい福音を宣べ伝えても皆が喜んでくれるとは限りません。自分たちのこれまでの頑張りが報われないようなときもあるのです。神と共に歩むクリスチャン生活は幸いなものですが、クリスチャンは災いに遭わないというわけではありません。それどころか、イエスは私たちにこの地上では患難があると言っています。ただし、患難の中でも勇敢であれと言っています(ヨハネ16:33)。イエスを信じる人は災いに遭わないと聖書は約束していません。しかし、主を信じる人は、災いによって人生が終了しないのです。私たちは倒れても真っ逆さまに倒れません(詩篇37:24)。私たちが苦しい目にあっても、主は信仰者たちに脱出の道も用意されています(Ⅰコリント10:13)。
また、私たちが遭う災いというのは、神の許しの範囲内でのことです。雀でさえ神の許しがなくては地に落ちません(マタイ10:29)。私たちには分かりませんが、何か神の目的があり、ご計画があるのです。希望を持ちましょう。すべては神の許しの範囲内であり、私たちはそこから脱出することができるのです。
2.獄中でも感謝し喜んで主を賛美する
パウロたちは、このような状況でも主を賛美しました。普通、このような状況にあるとき、悲しみ、怒り、恐れ、不安などのネガティブな気持ちになるでしょう。私たちは人々から受け入れられず、トラブルが起きたりすると、「主よ、助けて下さい」と祈りはします。しかし、感謝できることもたくさんあるはずです。永遠の命が与えられていること、肉体の命が守られていること、健康が与えられているとか、家族の助けがあるとか、仕事が与えられているとか、感謝できることはたくさんあります。何があっても、いつも喜び、祈り、感謝することが神の御心なのです(Ⅰテサロニケ5:16-18)。
また、この時のパウロたちの心境は、福音のために迫害を受けたということに、本当に喜
びに満ちていたことでしょう(使徒5:41)。おそらく、迫害が起きたことすらも感謝したのでしょう。喜びのあまり、主を賛美してしまいました。困難に直面しても感謝し主を賛美することは人間の理解を超えたことです。人間的な考えを捨て、主に感謝し、喜んで賛美の声を上げるとき、そこに脱出の道があるのです。
このあと、神の不思議な大地震が起こりました。そのとき、彼らの鎖は解かれ、牢屋は開いてしまいました。これを機に、看守とその家族はイエスを信じてバプテスマを受けたのです。さらに、パウロたちも無事釈放されました。神が働かれたら、一瞬ですべてが変わるのです。
まとめ
たとえ苦しみの中にあったとしても、主に感謝し喜ぶなら、おのずと賛美が口からでるものです。そのような賛美を主は喜ばれるのです。主が喜んでくださるなら、主は何かをなされるということです。主に期待しましょう。
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